3 第三世界の自立と東西ブロック内の動揺

3 ラテン=アメリカ諸国とキューバ革命

 ラテン=アメリカ諸国は、第二次世界大戦では軍事・経済面で連合国(実質的にはアメリカ)に協力し、一部の国はヨーロッパ戦線に兵員を送り、経済面ではさまざまな戦略物資を連合国に供給した。

 アメリカは、第二次世界大戦を通してラテン=アメリカ諸国と緊密な政治・経済・軍事的関係をうち立て、それまでラテン=アメリカ諸国に大きな影響力を及ぼしていたイギリス勢力が後退する中で、ラテン=アメリカ諸国に対して圧倒的な影響力をもつ唯一の国となった。

 アメリカは、冷戦を背景に、ラテン=アメリカ地域に対しても反共政策をとり、米州共同防衛条約を成立させ、米州機構を創設した。

 1947年9月、米州19カ国は、リオデジャネイロでパン=アメリカ会議を開き、リオ協定(リオ条約、米州共同防衛条約、米州相互援助条約)を結び、米州の一国に対する侵略を全米州諸国に対する侵略とみなし、共同行動をとることを約した。

 そして翌1948年4月には、ボゴタ(コロンビアの首都)で開かれた第9回パン=アメリカ会議で、米州機構憲章(ボゴタ憲章)を採択し、米州機構(OAS)を結成した。

 米州機構憲章は、原加盟国であるアメリカを含む21カ国の平等を宣言し、西半球の平和と安全の強化・加盟国間の紛争の平和的解決・侵略に対する共同行動・経済文化面での協力などを規定している。なおOASの現加盟国は34カ国となっている。

 ラテン=アメリカでは、すでに1930年代から40年代にかけて政治改革や土地改革を求める運動が起こっていた。

 アルゼンチンでは、1946年に、ペロン(1895〜1974、任1946〜55、73〜74)が、労働者の圧倒的な支持を得て大統領に選出され、民族主義に立つ社会主義政策を実施した。

 ペロンは、外国資本の国有化・工業化による経済の自立・計画経済の導入・初等教育の拡充などに取り組んだが、1950年代になると経済の悪化で政策が行きづまり、アメリカ資本や国内の地主階級からの攻撃が強まり、1955年9月の軍部クーデターによって政権の座を追われ、スペインに亡命した。

 中米のグアテマラでは、1951年に、アルベンス=グスマン(任1951〜54)が大統領に就任し、左翼政権が成立した。アルベンス=グスマンは、マルクス主義の影響を受けた軍人で、1944年の革命を指導し、防衛大臣を経て大統領に選ばれた。

 アルベンス=グスマンは、労働組合や共産党の支持を背景に農地改革法を公布し(1952)、土地解放(国有地分配)を行い、また産業国有化政策を進めた。

 しかし、土地改革によってユナイテッド=フルーツ会社(アメリカの代表的な多国籍企業の一つ)の土地を接収したため、CIA(アメリカ中央情報局)が煽動した反革命によってアルベンス=グスマン政権は倒壊した(1954.6)。

 さらに南米のボリビアでは、1952年に、パス=エステンソーロらが指導する革命的軍人・錫鉱山労働者・農民を結集した国民革命運動の革命が成功し(ボリビア革命、1952〜64)、パス=エステンソーロ(任1952〜56、60〜64)が大統領に就任した。

 パス=エステンソーロは、錫鉱山の国有化・土地改革・普通選挙の実施など民主的諸改革を行い、1964年5月に3選されたが、同年11月に起こった軍のクーデターによって追放された。

 1950年代にラテン=アメリカで活発となった社会改革や反米民族運動の動きをさらに促進し、ラテン=アメリカ諸国の革命運動・民族運動に大きな影響を及ぼしたのがキューバ革命(1959)であった。

 キューバでは、1959年1月1日、カストロ(1926〜)の率いる革命軍がバティスタ政権を打倒し(キューバ革命)、カストロが政権を握った。

 バティスタ(1901〜73、任1940〜44、52〜58)は、世界恐慌の混乱期にマチャド独裁政権を倒し(1933)、その後実権を握り、大統領に就任した(1940)。1944年の大統領選で敗れたが、1952年に軍事クーデターによって親米独裁政権を樹立した。

 カストロ(1926〜、任1959〜)は、地主の家に生まれたが、ハバナ大学の学生運動の指導者として活躍した。卒業後弁護士となったが、アメリカ資本と結んで腐敗したバティスタ政権に対する反独裁闘争を続け、1953年に革命軍を率いて兵営を襲撃したが失敗し、逮捕された。

 1955年、大赦によって釈放されたカストロはメキシコに亡命し、そこでアルゼンチン生まれのゲバラ(1928〜67)と出会った。2人は革命軍を組織してゲリラの訓練を行い、1956年12月に同志82名とともにキューバ東海岸に上陸したが、政府軍の反撃によって全滅に近い損害を受け、山中に逃げ込んだ。

 カストロは、生き残った12人の同志とともに以後2年間にわたってゲリラ戦で抵抗を続け、農民の間に支持を拡大していった。革命軍は1958年の夏頃には約300人になっていた。

 1959年1月1日、カストロはついにバティスタ政権を打倒した。同日、バティスタはドミニカに亡命した。

 カストロは、2月には首相となり、徹底した土地改革を断行し(1959.5)、大企業の国有化(1960)を実施した。
 そのためアメリカとの関係が急速に悪化し、アメリカがキューバの砂糖の輸入を禁止すると(1960.7)、キューバはそれに対抗して在キューバのアメリカ資産の接収を宣言した(1960.8)。

 1961年1月、アメリカはついにキューバとの国交を断絶した。さらに4月、アメリカは、CIAの援助で編成された亡命キューバ人部隊をキューバに侵攻させ、カストロ政権の武力打倒をはかったが、反革命軍はわずか3日間で撃滅され、アメリカの企ては失敗に終わった。

 1961年5月、カストロはキューバの社会主義宣言を行い、「キューバの革命は社会主義革命である」と宣言した。キューバは、ラテン=アメリカ最初の、そしてユーラシア大陸以外での最初の社会主義国となった。

 キューバは以後ソ連寄りの姿勢を強め、1962年2月にはOASを脱退した。そしてソ連は同年9月、キューバに対する武器援助の声明を行った。

 1962年10月14日、アメリカのU2型機(スパイ偵察機)が撮影した写真によって、キューバにソ連が建設中のミサイル基地があることが判明した。

 10月22日、アメリカのケネディ大統領(任1961〜63)は、キューバに建設中のソ連の軍事基地が防御的なものから攻撃的なものになったとし、アメリカは自国と西半球の安全のために、キューバに武器を運ぶ船舶に対して海上封鎖を行うなど断固たる措置をとることを全米に向けて放送した。

 翌23日、キューバ問題に関する緊急安保理が開催され、米ソは激論を展開した。同日、ケネディはキューバ向け武器援助に関する海上封鎖宣言に署名した。

 10月24日、アメリカ海軍は海上封鎖を開始した。アメリカ海空軍がカリブ海全域に展開し、カリブ海には180隻の艦船が出動した。国防省はすでに攻撃的な兵器を積んだ船舶が停戦命令に従わなければこれを撃沈するとの声明を出していた。

 しかも、この時、25隻のソ連船がキューバを目ざして進んでいた。

 もし、ソ連船が海上封鎖の突破をはかり、アメリカがこれを攻撃すれば、第三次世界大戦・核戦争が勃発し、地球・人類が破滅する状況となった。世界中がこの状況を息をのんで見守った。

 24日夜半、進行中のソ連船数隻が進路を変更し、危機はひとまず回避された。

 27日、フルシチョフはキューバのソ連ミサイル基地とトルコのアメリカミサイル基地の相互撤去を提案したが、ケネディはこれを拒絶した。

 10月28日、フルシチョフは、アメリカがキューバに侵略しないことを条件に、キューバからの攻撃的兵器の撤収を通告した。

 その後、ソ連はキューバからミサイルを撤去し、ケネディはその撤去を確認し(11月2日)、11月20日に海上封鎖を解いた。

 こうして世界を揺るがしたキューバ危機は終わり、世界戦争の危機は回避された。しかし、キューバの革命政権は維持され、以後のラテン=アメリカ諸国の革命運動・民族運動に大きな影響を及ぼした。 




目次へ戻る
次へ