3 第三世界の自立と東西ブロック内の動揺

2 非同盟諸国の結集とアジア諸国の変化

 1954年のコロンボ会議や1955年のアジア=アフリカ会議は、第三世界を結集する非同盟主義の原点となった。

 第三世界とは、アメリカを中心とする西側先進資本主義国家群(第一世界)とソ連を中心とする東側社会主義国家群(第二世界)に対し、第二次世界大戦後に独立を達成したアジア=アフリカ諸国、そしてラテン=アメリカ諸国の発展途上国国家群を指すが、米ソ二大陣営のいずれにも属さない国家群を指す場合もある。

 米ソ二大陣営のいずれにも属さず、積極中立の立場を主張する諸国は第三勢力とも呼ばれ、その中心となったのはインドのネルー首相・インドネシアのスカルノ大統領・エジプトのナセル大統領らであった。

 これら米ソ両陣営のどちらにも属さず、平和共存・反植民地主義の立場を基調とする第三勢力の外交路線は非同盟主義(政策)と呼ばれ、第三勢力の積極中立とほぼ同義に使われている。

 1961年9月1日、ユーゴスラヴィアのティトー大統領・エジプトのナセル大統領・インドネシアのスカルノ大統領・インドのネルー首相らの呼びかけによって、ユーゴスラヴィアのベオグラードで、第1回非同盟諸国首脳会議が開かれた。アジア・アフリカ・ラテン=アメリカの非同盟25カ国の首脳が参加して開かれたこの会議では、平和共存・民族解放闘争の支持・新旧植民地主義の打破・外国基地の一掃などが宣言され、参加国は共同歩調をとることを誓った。

 非同盟諸国首脳会議は、その後も定期的に開かれ、第10回ジャカルタ(1992)には108カ国が、そして第12回ダーバン(南アフリカ、1998)には119カ国が参加している。

 1960年代になると、アジア諸国のなかにも、それまでの体制に対する批判が現われるなど、さまざまな変化が起こった。

 日本では、1960年1月に調印された日米新安全保障条約に対する反対闘争が全国的な規模で行われ、アメリカのアイゼンハウアー大統領の訪日を阻止し(1960.6)、岸内閣(任1957.2〜60.6)を退陣に追い込んだ(1960.6)。

 大韓民国でも、1960年3月に行われた大統領選挙での不正をきっかけに李承晩政権の独裁に反対する運動が起こった。

 李承晩(イスンマン、1875〜1965、任1948〜60)は、初代大統領に就任以来、徹底した反共・親米政策を進め、1960年3月の大統領選挙では4選をはたした。しかし、長期にわたる独裁政治と政治腐敗に対する国民の不満は強く、大統領選挙での不正に対する抗議の暴動をきっかけに大規模な反政府運動が起こった。

 1960年4月には、ソウルで李承晩の退陣を要求する学生のデモが起こった(四月革命、四・一九学生革命)。この運動が全国に広まり、各地でデモや流血事件が続く中で、李承晩は退陣し(1960.4)、5月にハワイへ亡命した。

 その後、尹ふ(さんずいに普)善(任1960.8〜62.3)が大統領に選出されたが、1961年5月に軍事クーデターが起こり、軍事革命委員会が実権を握った。

 朴正煕(パクチョンヒ、1917〜79、任1963〜79)は、満州国軍官学校を卒業、日本陸軍士官学校に留学し、関東軍に配属された。祖国の解放とともに韓国軍に入り、軍団長・参謀長を歴任し、1961年5月に軍事クーデターを起こし、軍事革命委員会副議長・国家再建最高会議副議長・同議長(1961.7)に就任し、軍事政権の中心となった。

 朴正煕は、尹ふ善の辞任(1962.3)で大統領代行となり、1963年12月に民政移管にともなって大統領に就任した。

 朴政権は、米・日との関係強化をはかり、ヴェトナム戦争に派兵し(1965.2)、日韓基本条約に調印した(1965.6)。

 日韓基本条約では、外交関係の開設・旧条約の失効・国連憲章の尊重・貿易協定などの交渉の開始が定められ、また無償3億ドル・有償2億ドルの経済協力協定も結ばれた。

 朴政権は韓国の経済成長を推進し、韓国経済は急速な発展をとげたが、その一方で反対派に対する厳しい弾圧を行った。

 朴大統領は、1979年10月に、側近の金載圭・韓国中央情報部長によって暗殺された。

 中国は、フルシチョフによる「スターリン批判」(1956)以後、ソ連が平和共存政策と対米接近をはかると、これに反発して中ソ論争(中ソ対立)が始まった(1960)。中ソ対立は、1963年以降公開論争に発展し、1969年には中ソ国境で軍事衝突が起こった。また国内では、1966年にプロレタリア文化大革命(文化大革命)が始まり、以後10年にわたって政治・経済・社会が大混乱に陥った。

 ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)では、初代大統領のゴ=ディン=ディエム(ゴ=ディン=ジェム、1901〜63、任1955〜63)が反共・親米政策を推し進め、独裁政治を行った。しかし、同政権が金権政治によって腐敗すると、独裁体制への批判が高まり、1960年には南ヴェトナム解放民族戦線(通称ヴェトコン)が結成された。

 ゴ=ディン=ディエムは、解放民族戦線の武装解放闘争が激しくなる中で、1963年11月に起こったクーデターで暗殺された。

 以後南ヴェトナムではクーデターが頻発し、政情が不安定となるなかで(1963.11〜65.6の間に、クーデター13回、内閣交替9回)、解放民族戦線の勢力が著しく伸張し、内戦が激化した。そのためアメリカは、南ヴェトナムの共産化を阻止するためにヴェトナムの内戦に直接介入し、1965年2月に北爆を開始してヴェトナム戦争(1965.2〜73.1)が始まった。

 インドネシアでは、初代大統領のスカルノ(1901〜70、任1945〜67)が、アジア=アフリカ会議(1955)を主催するなど第三勢力のリーダーとして活躍した。

 スカルノは国内では、1960年頃から「指導される民主主義」・「ナサコム体制」(NASAKOM、NASは国民党や民族主義組織、Aは宗教でイスラム勢力、KOMは共産党)を唱え、三者のバランスの上に政権を維持し、1963年には終身大統領兼首相となった。

 スカルノは次第に社会主義に傾斜し、反米・親中国路線を強め、非承認国のマレーシアが国連安保理非常任理事国に当選したことを理由に、1965年1月に国際連合を脱退した。なおインドネシアの国連脱退は、国連創設以来初の脱退であり、唯一の国連脱退例である。

 こうしたスカルノの反米・反国連路線とナサコム体制下での共産党勢力の伸張に対して、NASやA・特に軍部が警戒を強めた。

 1965年9月30日、軍部左派(共産党系軍人)によるクーデターが起こり、右派の将軍6人が殺害された。しかし、このクーデターは戦略予備軍司令官スハルトによって10月1日のうちに鎮圧された(九・三〇事件、インドネシア=クーデター)。

 九・三〇事件をきっかけに、軍部右派による共産党・左翼勢力への弾圧が始まり、約30万の共産党員やその関係者が虐殺されたといわれている。これによって非社会主義国中最大であった党員約200万人のインドネシア共産党は壊滅した。

 九・三〇事件でスカルノ体制は事実上崩壊し、翌1966年3月、スカルノ大統領はスハルト陸相(1965.10就任)に全権を委譲した。そして1967年3月、スハルトが大統領代行に任命され、スカルノは全権限を剥奪された。

 1968年3月に正式に大統領に就任したスハルト(任1968〜1998)は、共産党を非合法化し(1966.3)、中国と断交して(1967.10)反共・親米路線をとり、経済発展に積極的に取り組んだ。

 この間、インドネシアは、マレーシアと国交を回復して平和協定を結び(1966.8)、1966年9月には国際連合に復帰した。

 1967年8月、インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイの5カ国は、東南アジア諸国連合(ASEAN、アセアン)を結成した。

 ASEANは、当初は反共軍事同盟の性格が強かったが、1971年に中立地帯宣言を出し、以後は政治・経済面での地域協力機構としての性格を強めた。

 ASEANには、その後ブルネイ(1984)・ヴェトナム(1995)・ミャンマー・ラオス(1997)・カンボジア(1999)が加盟し、ASEANは東南アジアの全ての国が加盟する地域協力機構となった。

 インドでは、独立後、初代首相となったネルー(任1947〜64)が非同盟・積極中立を唱え、第三勢力の指導者として活躍したが、1964年5月に亡くなり、シャストリ(1904〜66)が第2代首相(任1964〜66)となった。

 シャストリは、1965年9月に始まったカシミール地方をめぐる第2次インド=パキスタン戦争(印パ戦争)(同月、両国が国連安保理の停戦決議を受諾して停戦)の解決に努め、翌1966年1月にタシュケント(タシケント)会議で休戦を実現したが、その直後に同地で客死した。

 1966年1月、インディラ=ガンディー(1917〜84、ネルーの娘)が新首相に選ばれ、第3代首相(任1966〜77、1980〜84にも首相を務めた)に就任した。インディラ=ガンディーは、国民会議派左派を率いて、貧困追放を掲げて社会主義的政策を推進した。

 イラクでは、カセム(カースィム、イラクの軍人、1914〜63)らによるイラク革命(1958.7)によって王政が打倒された。カセムは首相と総司令官を兼任し、バグダード条約から脱退して中立政策を進めたが、1963年にバース党のクーデターで殺害された。




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