1 AA会議とアフリカ諸国の独立(その2)
アルジェリアは、1830年以来フランスの侵略を受け、1842年には直轄領となった。その後、約100万人といわれるコロン(フランス人植民者)が入植し、大土地を所有して農業経営を営み、アルジェリアの政治・経済上の実権を握っていた。コロンはアルジェリアに多額の投資をしていたので、既得権を守ろうとし、アルジェリアの独立には強く反対した。
フランスは、1954年にインドシナの独立を認めた直後であったので、石油をはじめとする資源の豊かなアルジェリアの独立を認めようとせず、軍やコロンの支持を得て民族解放戦線(FLN)の独立闘争を鎮圧しようとした。
しかし、フランス軍の増強にもかかわらず、アルジェリア戦争は長期化・泥沼化した。フランスは約50万の大軍を投入し、1日約300万フランの戦費を注ぎ込んだが鎮圧できず、巨額な戦費は財政を圧迫し、財政危機に陥り、政情も不安定となった。
フランス政府は妥協しようとしたが、コロンと現地のフランス軍は政府の妥協案に反対し、1958年5月にアルジェで反乱を起こし、ド=ゴールを首班とする強力な政府の樹立を要求した。これに対して民族解放戦線(FLN)側も同年9月にアルジェリア共和国臨時政府を樹立した。
内乱の危機にさらされたフランス第四共和政政府は、反乱に対応できず、ついにド=ゴールに政権を委譲し、1958年6月1日にド=ゴール内閣が成立した。
12年ぶりに政権に復帰したド=ゴールは、6ヶ月の全権委任を受け、1958年9月には、国民議会の権限を縮小し、大統領の権限を大幅に強化した新憲法(第五共和国憲法、通称ド=ゴール憲法)を発表した。新憲法は10月に行われた国民投票で圧倒的多数で採択され、1958年10月5日、第五共和国憲法が公布され、第五共和政が発足した。
12月の大統領選で圧勝したド=ゴールは、翌1959年1月に第五共和政の初代大統領に就任した(任1959.1〜1969.4)。
ド=ゴールは、アルジェリア問題については独立を与えるより他に解決の道はないと考え、民族自決の原則に基づくアルジェリア和平案を提案し(1959.9)、独立承認の方針を国民投票にかけ(1961.1)、圧倒的多数で支持された。
フランス政府とアルジェリア共和国臨時政府は、長い交渉の後、1962年3月にエヴィアン協定(アルジェリアの独立を認める停戦協定)を結び、1962年7月、アルジェリアはついに独立を達成した。
そして、ベン=ベラ(民族解放戦線(FLN)を創設し、アルジェリア独立闘争を指導した)が初代首相(1962〜63)・民主人民共和国初代大統領(1963〜65)に就任したが、クーデターで失脚した。
1952年のエジプト革命、1955年に開かれたアジア=アフリカ会議、チュニジア・モロッコなど北アフリカ諸国の独立、特に1954年以後のアルジェリアの独立闘争は、いわゆる黒いアフリカ(Black Africa)・サハラ以南のアフリカ諸国の民族独立運動に大きな影響を及ぼした。
サハラ以南のアフリカ諸国のうち、最初に独立を達成したのはガーナであった。
その指導者となったエンクルマ(1909〜72)は、貧しい家に生まれ、教師となった後に、英・米の大学に学び、その間にマルクス主義を学ぶとともに民族主義に目ざめてパン=アフリカ独立運動に参加した。 帰国後、会議人民党を結成(1949)して指導者となり、即時独立を求めて反英独立運動を起こしたが、1950年に投獄された。しかし、投獄中に総選挙に立候補して当選し、1952年にゴールド=コースト(黄金海岸)首相となった。
1957年3月6日、ついにガーナはサハラ以南で最初の黒人共和国として独立し、イギリス連邦の一員となり、1960年には完全に独立した。
エンクルマは、ガーナ首相を経て初代大統領(任1960〜66)となり、社会主義政策を推進し、全アフリカ人民会議を提唱した。
1958年12月、ガーナの首都アクラで開かれた全アフリカ人民会議には28の国・地域の代表が集まり、アフリカの即時独立を要求した。
エンクルマは、アフリカの独立運動・統一運動で指導的な役割を果したが、1966年2月のクーデターで失脚し、ギニアに亡命した。
ガーナに続いて、1958年10月にはギニアが独立し、旧フランス領からの最初の独立国となった。
そして、「アフリカの年」といわれる1960年には、カメルーン・トーゴ・コンゴ・マダガスカル・ソマリア・ナイジェリア・セネガル・コートジヴォアール・マリ・ニジェール・チャドなど17カ国が一挙に独立を達成した。
1963年5月には、エチオピアの首都アディスアベバでアフリカ独立諸国首脳会議が開かれた。この会議にはアフリカ30カ国の首脳が参加し、アフリカ統一機構憲章に調印し、アフリカ統一機構(OAU)が結成された。
アフリカ統一機構(OAU)は、「アフリカは一つ」のスローガンのもとに結成され、アフリカ諸国の統一と連帯の促進・生活水準の向上・植民地主義の一掃などを唱え、アフリカの諸問題を討議して「アフリカの国連」と呼ばれている。
しかし、新興独立国の中には、独立後、内戦に巻き込まれた国もあった。
1960年にベルギーから独立したコンゴでは、独立直後にコンゴ動乱(1960.7〜65.11)が起こった。
コンゴでは、ルムンバ(1925〜61、熱烈な独立運動の指導者)が共和国初代首相(任1960〜61)となったが、独立直後の7月に早くも軍隊の反乱が起こり、部族間の対立も激化した。この混乱に乗じてベルギーが介入し、ウラン・コバルトなど重要鉱産資源の豊富なカタンガ州の分離独立を図り、7月にはカタンガ州が独立を宣言した。
コンゴの要請で、8月にはアメリカ軍を主力とする国連軍が出動し、民族独立派・国連軍を背景とするアメリカ・カタンガ州の独立を図るベルギーが入り乱れての内乱となった。
ルムンバは、9月にモブツ(1930〜97、コンゴの親米派軍人)によって逮捕され、翌1961年1月に虐殺された。その後も激しい動乱が続いたが、1965年11月にモブツがクーデターによって大統領に就任し(任1965〜97)、以後親米独裁政権が続いた。
また、1960年にイギリスから独立したナイジェリアでも、ナイジェリア内戦(1967〜70)が起こった。
17カ国が独立した1960年の「アフリカの年」以後も、1960年代にタンガニーカ(1961)・アルジェリア(1962)・ケニア(1963)・ザンビア(1964)・ローデシア(1965)・ボツワナ(1966)など15カ国が独立し、それぞれ国際連合に加入したので、1960年代末までには国際連合に加盟したアフリカ諸国は42カ国となり、アジア諸国とともに国際連合の中で一大勢力となった。
しかし、アフリカの新興独立諸国の多くは、独立後も政治・経済は不安定で、部族対立による内戦やクーデターがくり返され、独裁政治がしばしば現われた。
特に経済面では、植民地時代からの農産物・鉱産物など一次産品の輸出に依存するモノカルチャー経済からの脱却、そして新植民地主義(第二次世界大戦後、今までのような露骨な政治・軍事支配を避け、経済支配によって実質的な支配を目ざす新しい型の植民地主義)からの脱却が大きな問題となっている。
1960年代以後、南北問題(北の工業先進国と南に多い発展途上国との間に経済格差があり、その格差がますます広がっている問題)や南南問題(発展途上国の中で産油国と非産油国との間にある経済格差の問題)が大きな問題として取り上げられてきたが、その解決は21世紀の重要な課題の一つとして残されたいる。