1 AA会議とアフリカ諸国の独立(その1)
1954年1月、ベルリンで米英仏ソの四国外相会議が開かれ、朝鮮問題の解決とインドシナ戦争の終結を討議する国際会議の開催が決定された。同年4月から7月にかけてジュネーヴ会議が開かれ、7月にジュネーヴ停戦協定が成立した。ジュネーヴ会議は、中華人民共和国が正式に参加した初の国際会議で、中国代表は休戦協定の成立に活躍した。
1954年4月28日(ジュネーヴ会議開催の2日後)、東南アジア5カ国(インド・インドネシア・セイロン・パキスタン・ビルマ、コロンボ=グループ)の首脳がセイロンのコロンボに集まり、コロンボ会議が開かれた。
コロンボ会議では、アジアの平和と中立のための諸問題が討議され、インドシナ戦争の早期解決・核兵器の使用禁止・植民地主義反対・中国の国連加盟・アジア=アフリカ会議の開催などが宣言された。
また中華人民共和国の周恩来首相は、ジュネーヴ会議の途中インドに立ち寄ってネルーと会談し(ネルー・周恩来会談)、1954年6月28日に領土と主権の尊重・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存の平和五原則を発表した。
翌1955年4月18日、インドネシアのバンドンでアジア=アフリカ会議(AA会議、バンドン会議)が開かれた。
アジア=アフリカ会議は、インドネシアのスカルノ大統領・インドのネルー首相・中華人民共和国の周恩来首相・エジプトのナセル大統領らが中心となって開催された、史上初の有色人種のみによる国際会議で、アジア=アフリカの29カ国の代表が参加した。
参加国の中には、冷戦下で対立している国もあり、アフリカの独立したばかりの国やまだ完全独立を達成していない自治植民地もあったが、アジア=アフリカの問題について共通の同意を示し、前年のネルー・周恩来会談で発表された平和五原則をふまえて、平和十原則(バンドン十原則)を宣言した。平和十原則は以下の通りである。
(1)基本的人権と国連憲章の趣旨と原則を尊重する。(2)全ての国の主権と領土保全を尊重する。(3)全ての人類の平等と大小全ての国の平等を承認する。(4)他国の内政に干渉しない。(5)国連憲章による単独または集団的な自国防衛権を尊重する。(6)集団的防衛を大国の特定の利益のために利用しない。また、いかなる国も他国に圧力を加えない。(7)侵略または侵略の脅威・武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立をおかさない。(8)国際紛争は平和的手段によって解決する。(9)相互の利益と協力を促進する。(10)正義と国際義務を尊重する。(浜島書店、世界史図説より)
アジア=アフリカ会議は、アジア=アフリカ諸国の連帯を世界に示し、またこの会議で打ち出された平和共存と反植民地主義などのバンドン精神は、以後の国際政治に大きな影響を及ぼした。
1952年7月のエジプト革命後、首相・大統領(任1956〜70)に就任したナセルは、農業改革・資源の開発・工業化に取り組んだ。彼が政治生命をかけて取り組んだ最大の事業がアスワン=ハイダムの建設であった。
アスワン=ハイダムは、ナイル川上流に建設が計画された巨大なダムで、1960年に着工され、1971年に完成した。その建設には巨額な資金が必要とされたので、エジプトは米英や世界銀行からの財政援助や融資による建設を計画していた。
ナセルは、アジア=アフリカ会議(1955.4)に出席し、周恩来やネルーらと会談して大きな感銘を受け、積極的中立を唱えた。彼は、バグダード条約機構(中東条約機構、1955年11月結成)への加入を拒否し、その一方でソ連から軍事援助の約束を取り付け、また中華人民共和国を承認するなど社会主義国へ接近する方向をとった。
これに対して、米英が1956年7月にアスワン=ハイダムへの建設援助を撤回すると、ナセルは1956年7月26日(革命記念日)にスエズ運河の国有化を宣言し、運河の国有化によって得られる収入をアスワン=ハイダムの建設資金に充てると主張した。
ナセルがスエズ運河国有化を宣言すると、国際スエズ運河会社を事実上所有している英仏は激怒し、武力干渉を決定し、アラブ(中心国がエジプト)の宿敵イスラエルを誘い込んでスエズ運河の奪回をはかった。
1956年10月29日、英仏に支援されたイスラエルがエジプトのシナイ半島に侵入し、第2次中東戦争(スエズ戦争、スエズ動乱、1956.10〜57.3)が始まった。
翌日、英仏はスエズ運河を戦火から守ることを口実に、イスラエル・エジプト両軍が運河地帯から撤退し、英仏が運河地帯に進軍することを認めるようにエジプトに要求した。そしてエジプトがこれを拒絶すると、10月31日に英仏軍はエジプトに出兵し、運河地帯を占領した。
この英仏の軍事行動は、アジア=アフリカ諸国をはじめとする国際世論の激しい非難を受けた。
11月2日、国連緊急総会で、アジア=アフリカ諸国が提案した英・仏・イスラエルの即時撤退要求の決議案が採択された。アメリカも英仏を非難し、ソ連はエジプト支援を表明するとともに、英仏に対する核ミサイルの使用をほのめかして警告を発した。
こうした状況の中で、英・仏・イスラエルは11月6日に停戦を受諾し、英仏は12月15日にエジプトからの撤退を声明し、翌1957年3月までには撤兵した。
この間、イギリスでは、1957年1月にイーデン首相(任1955〜57)がスエズ戦争の責任をとって辞任し、マクミラン(任1957〜63)が首相に就任した。またアメリカは、英仏が中東から撤退した後に共産主義勢力が進出することを恐れ、同月、この地域に対する経済・軍事援助を発表した(アイゼンハウアー=ドクトリン)。
スエズ運河は、1957年にエジプトの支配下で再開され、スエズ戦争で実質的な勝利者となったナセルは、エジプト一国だけでなく、アラブ=ナショナリズムの中心的な指導者・アジア=アフリカの非同盟諸国の指導者の一人となった。
第二次世界大戦中に戦場となった北アフリカにもアラブ=ナショナリズムが広がっていた。
1912年以後イタリアの植民地となり、第二次世界大戦中に英・仏の占領下に置かれたリビアは、1949年に国連総会で独立が承認され、1951年12月に連合王国として独立した。
リビアの独立は、フランスの保護国であったチュニジア・モロッコや直轄領であったアルジェリアに大きな刺激を与えた。チュニジアとモロッコでは民族主義政党の反フランス運動が高まり、両国は1956年3月に完全独立を達成した。
アルジェリアでも、すでに1954年11月に、フランス支配に対するアルジェリア民族解放戦線(FLN)の独立武装闘争が始まっていた(アルジェリア戦争、1954.11〜62.7)。