2 東西対立と冷戦

2 朝鮮戦争とアジアの冷戦(その2)

 冷戦の激化と中国内戦で国民党の敗北が決定的になったことは、アメリカの対日占領政策を大きく転換させた。アメリカは、極東政策を中国中心から日本中心に移行させ始め、日本の占領政策を転換させ、日本をアメリカのための極東の工場とすることに重点を置くようになった。

 「対日占領政策の方向は、強力な日本政府を育成することにある。日本自身が自立できるだけでなく、今後極東に起こるかも知れない新しい全体主義の脅威に対して、防壁の役目を果すに十分な強力な安定した民主主義を築きあげるにある」という1948年1月のアメリカ陸軍長官ロイヤルの演説は、アメリカの対日占領政策の転換をよく示している。

 1950年6月、朝鮮戦争が始まると、マッカーサーは日本政府に警察予備隊(1952年に保安隊、1954年に自衛隊と改称)の創設を指令し、さらに前進基地としての日本の役割を強化するために、対日講和条約の締結を急いだ。

 対日講和条約については、1949年11月にアメリカ国務省が対日講和条約案起草準備中と発表すると、日本国内でも全面講和か(ソ連・中国を含めた全連合国と平和条約を締結すべきという主張)と単独講和か(米ソの妥協が出来ない状況では一部の国との間に平和条約を締結することもやむを得ないとする主張)の議論が盛んとなったが、朝鮮戦争の勃発は早期講和と単独講和の方向を決定づけた。

 1951(昭和26)年9月4〜8日、サンフランシスコ講和会議が開かれ、9月8日に日本全権吉田茂首相がサンフランシスコ平和(講和)条約に調印した。

 これにより、日本は主権を回復し、朝鮮・台湾・南樺太・千島を正式に放棄した。また沖縄と小笠原諸島は引き続きアメリカの占領下に置かれることとなった。

 サンフランシスコ講和会議には、中国は中華人民共和国も国民政府も招かれず、またインド・ビルマは会議への出席を拒絶した。また会議に参加したソ連・チェコスロヴァキア・ポーランドは調印を拒否したので、サンフランシスコ平和条約に調印した国は48カ国であった。

 同日、日本はアメリカと日米安全保障条約を結んだ。日米安全保障条約は、アメリカが侵略や内乱に対して日本を守ることを定め、日本はアメリカ軍の駐留と軍事基地の存続を認めた条約で、これによって日本は自由主義陣営・アメリカの反共陣営の一環に組み込まれることになった。

 当時、日本経済は、1949年3月に発表されたドッジ=ライン(アメリカの銀行家ドッジによる財政・金融・通貨にわたる経済安定計画)による不況に苦しんでいた。しかし、朝鮮戦争勃発とともに、アメリカ軍から軍需物資・武器・弾薬の製造や車輌の修理などの大量の注文が舞い込んできた。このいわゆる特需(1950〜53年に約23億ドル)によって日本経済は不況を脱し、特需景気と呼ばれる好景気が続き、後の高度経済成長への足がかりをつくった。

 すでにアジアでは、インドシナ戦争・中国の内戦・朝鮮半島の南北分断など冷戦が激化していたが、直接戦闘をまじえた朝鮮戦争の勃発によって緊張はさらに強まった。こうした状況の中でアメリカはアジアにおける反共軍事同盟の結成を急いだ。

 アメリカは、1951年8月にフィリピンと米比相互防衛条約を結び、9月には日米安全保障条約を結ぶとともに、同月、オーストラリア・ニュージランドとの間に太平洋安全保障条約(ANZUS、アンザス)を結んだ。そして1953年8月には、朝鮮休戦協定を無視して米韓相互防衛条約を結んだ。

 さらに1954年9月には、アメリカが中心となり、イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージランド・フィリピン・タイ・パキスタンの8カ国で東南アジア条約機構(SEATO、セアトー)を結成し、同年12月には台湾の蒋介石政権と米華相互防衛条約を結んだ。

 西アジアでも、1955年11月に、トルコ=イラク相互防衛条約(1955.2)にイギリス・イラン・パキスタンが参加して、バグダード条約機構(中東条約機構、METO)を結成した。しかし、1958年のイラク革命でイラクが脱退したので、中央条約機構(CENTO)と改称し、本部をトルコのアンカラに移した。

 こうしてアメリカは、ヨーロッパにおけるNATOと合わせて、ソ連・東欧諸国・中華人民共和国・北朝鮮・北ヴェトナムの共産主義政権を包囲する反共軍事同盟をつくりあげた。

 これに対して、ソ連は、1950年2月に中華人民共和国と中ソ友好同盟相互援助条約を結び、1955年5月には東欧8カ国で東ヨーロッパ相互援助条約(ワルシャワ条約機構)を結成してNATOに対抗したので、東西両陣営の軍事的対立はますます深まった。




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