2 東西対立と冷戦

2 朝鮮戦争とアジアの冷戦(その1)

 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の成立によって南北に分断された朝鮮では、米ソの占領軍が撤退した後、38度線において小規模な衝突がくり返されていた。

 1950年6月25日未明、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍が38度線を越えて侵攻し、朝鮮戦争(1950.6〜53.7)が始まった。

 同日、安全保障理事会がアメリカの要求によって開かれ、北朝鮮軍の行動は侵略行為であるとして戦闘の即時停止と北朝鮮軍の38度線までの撤退を要求するアメリカの決議案が、ソ連が欠席する中で、賛成9・棄権1で可決された。

 当時ソ連は、前年に成立した中華人民共和国の中国代表権を主張して安全保障理事会をボイコットしていたので、拒否権を行使しなかった。

 さらに安全保障理事会は、6月27日に、「武力攻撃を撃退し、かつ朝鮮における国際平和と安全を回復するために必要な援助を韓国に与える」というアメリカの決議案を可決し、7月7日には朝鮮での軍事行動の統一指揮権をアメリカに委ねた。

 これに基づいて、トルーマン大統領はマッカーサーを国連軍最高司令官に任命し(7月8日に就任)、7月25日には東京に国連軍司令部が設立された。

 この間、朝鮮戦争の戦況は北朝鮮軍が優勢で、開戦後三日目にはソウルを占領し、その後も快進撃を続けて南下し、7月末には釜山近郊に迫り、北朝鮮軍が朝鮮全土を制圧するかに見えた。

 しかし、アメリカ軍を主力とする国連軍は、北朝鮮の進攻を洛東江(釜山の西を流れる大河)の線でくい止めるとともに、9月15日には仁川への上陸作戦を敢行した。

 仁川上陸の成功を機に戦局は逆転し、分断された北朝鮮軍は敗走を重ねた。国連軍は、9月26日にソウルを奪回し、10月1日には38度線を越えた。さらに10月20日には平壌を占領し、10月26日には先頭部隊が鴨緑江岸に達した。

 今度は国連軍と韓国軍が朝鮮全土を制圧するかに見えたとき、10月25日に中華人民共和国の人民義勇軍が出動してきた。中華人民共和国は、「アメリカ軍の北朝鮮侵略は、中国の安全に対する重大な脅威であり、中国人民はこれを傍観できない」と声明し、人民義勇軍を派遣して北朝鮮軍を援助した。

 中華人民共和国の人民義勇軍の参戦によって、再び形勢が逆転した。人民義勇軍と北朝鮮軍は11月末から反撃に出、年末までに国連軍を38度線に押し返し、1951年1月30日にはソウルを陥れた。

 しかし、国連軍は3月7日にソウルを再び奪回し、以後戦局は38度線をはさんで一進一退を続け、膠着状態に陥った。

 1951年4月11日、戦局打開のために中国領への爆撃と核兵器の使用を主張したマッカーサーが罷免された。

 同年6月23日には、国際連合でソ連代表のマリクが朝鮮戦争の停戦を提案し、アメリカもこれを受け入れて、7月10日に休戦会談が始まった。休戦会談は初め開城で始まったが、1951年10月からは板門店で開かれた。しかし、捕虜問題をめぐる対立などによって休戦交渉は進展せず、会議は2年に及んだ。

 1953年1月にアメリカでは朝鮮戦争の休戦を選挙で公約したアイゼンハウアーが大統領に就任し、同年3月5日にソ連でスターリンが亡くなった。このような状況の中で休戦交渉が進展し、1953年7月27日、ようやく板門店で休戦協定が調印された。

 しかし、休戦協定によって、朝鮮は38度線付近の軍事境界線で南北に分断され、統一への道が閉ざされた。また、3年にわたる激戦で朝鮮全土が戦場となり、戦火で国土は焦土と化し、100万人以上の兵士が死傷し、民間人の死傷者・行方不明者も300万人に達するといわれ、朝鮮戦争は朝鮮半島に深い傷跡を残した。




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