4 西アジアとアラブ世界
西アジア諸地域は、第二次世界大戦の間、直接の戦場となることがなかったので、戦前の政治形態(大半は王政)とヨーロッパ列強(特にイギリス)の利権が戦後まで続いた。そのため、戦後民族主義運動が発展した。
第一次世界大戦後、フランスの委任統治下にあったシリアは、1944年にシリア共和国として独立し、1946年に完全に独立した。またレバノンも、1941年にシリアから分離して独立を宣言し、1944年には共和国として独立した。
第一次世界大戦後、イギリスの委任統治下にあったトランスヨルダンは、1946年にヨルダン王国として独立した。
1945年3月、エジプト・シリア・レバノン・ヨルダン・イラク・サウジアラビア・イエメンのアラブ7カ国は、アラブ諸国の政治・経済・文化面での統合と交流を目ざしてアラブ諸国連盟(アラブ連盟)を結成した。アラブ諸国連盟は反ユダヤでまとまり、後にパレスチナ戦争を起こした。なお、アラブ連盟にはその後リビア・チュニジア・モロッコ・アルジェリア・スーダン・クウェート・パレスチナ自治政府などが加盟し、現在の加盟国は22カ国になっている。
第一次世界大戦後、イギリスの委任統治下にあったパレスチナではアラブ人とユダヤ人との深刻な対立が続いていたが、イギリスは1948年の委任統治の終了を前に、パレスチナ問題の処理を国際連合に委ねた(1947.2)。
国際連合は、特別委員会を設けて現地調査を行い、パレスチナ分割案を作成し、1947年11月に国際連合総会に提案した。
パレスチナ分割案は、パレスチナをユダヤ・アラブ両国家に分割し、聖地イェルサレムを国際管理下に置くという案であったが、人口で3分の1・所有地で6%を持つに過ぎなかったユダヤ人にパレスチナの56.5%の土地を与えることになっていたので、アラブ諸国は強く反発した。
パレスチナ分割案は、1947年11月29日に、賛成33・反対13・棄権10で可決されたが、翌12月には早くもアラブ人とユダヤ人の武力衝突が起こった。
1948年5月14日、イギリスの委任統治が終了してイギリス軍が撤退すると、パレスチナ分割案を受け入れたユダヤ人はイスラエル共和国の建国を宣言した。
これに対して、パレスチナ分割案を拒否したエジプトをはじめとするアラブ諸国は、イスラエルの建国を認めず、イスラエルを攻撃し、第1次中東戦争(パレスチナ戦争、1948.5〜49.3)が始まった。
第1次中東戦争は、2度の停戦をはさんで翌年まで続いたが、国を守るために必死に戦うイスラエルの前にアラブ側は大敗し、国連の調停で停戦が成立した。
イスラエルは独立を確保し、国連分割案の1.5倍の領域を獲得し、1949年5月に国際連合に加盟した。
しかし、この戦争によって約100万人のアラブ人がパレスチナから追放されてパレスチナ難民となり、イスラエルとアラブ諸国との対立はますます激化した。
イランは、第二次世界大戦には中立を宣言したが、1941年8月にイギリスとソ連両軍がイランの中立宣言を無視してイランに進駐し、国王のレザー=ハーン(位1925〜41)に退位を強要した。
レザー=ハーンは、イギリスとソ連を牽制するためにドイツに接近し、多くの技師や顧問をドイツから招いたので、イギリスとソ連はイランからナチス=ドイツを排除することを口実に、1941年9月にレザー=ハーンを退位させ、パフレヴィー2世(ムハンマド=レザー=パフレヴィー、1919から80、位1941〜79)を即位させた。
戦後、イランでは外国の干渉に反対する民族主義運動が高まった。特にイランの石油の採掘・精製・販売を独占して膨大な利益を得ていたアングロ=イラニアン石油会社(1909年に設立されたイギリス系企業)に対する批判が高まり、石油国有化の要求が強まった。
この時、国民戦線を結成し、石油国有化運動を指導したのがモサデグである。
モサデグ(1881〜1967、任1951〜53)は、テヘランの名門に生まれ、フランスなどに留学し、帰国後国会議員を経て法相・蔵相などを歴任した。しかし、レザー=ハーンの独裁を批判したために追放され(1930〜40)、レザー=ハーンの退位後に国会議員に復帰した。そして1949年に国民戦線を結成してその指導者となった。
1951年3月、イラン国民議会は石油国有化法案を可決し、モサデグを首相に任命した。
モサデグは、アングロ=イラニアン石油会社を接収し、これを国営イラン石油公社に改めた。
しかし、イギリスはアメリカ・フランスの石油会社とカルテルを結び、イランの石油を世界市場から閉め出した。こうしたイギリスの対抗と石油生産の激減によって、石油収入が途絶えたイランはたちまち経済危機に陥った。
1953年8月、国王派の軍部クーデターが起こり、モサデグは失脚し、軍法会議で禁固3年の判決を受けた。
その後、イラン政府は1954年8月に八大石油資本(七大メジャーとフランス石油)と協定を結び、イランの石油生産・販売は国際石油資本に握られることになり、イラン人による石油産業の自主経営は挫折した。
エジプトでは、第二次世界大戦後、エジプト=イギリス同盟条約(1936)の撤廃・完全独立を求める反英民族運動が強まった。こうした状況の中で、ワフド党内閣が1951年10月にエジプト=イギリス同盟条約の破棄(スエズ駐兵権・スーダンの共同管理の破棄)を通告したため、イギリス・エジプト両軍がスエズで衝突した。
またパレスチナ戦争(第1次中東戦争、1948〜49)での敗北を機に、腐敗した王政に反対する民族運動も高まり、1952年7月にはエジプト革命が起こった。
エジプト革命の中心となったのはナギブ(1901〜84)・ナセル(1918〜70)らを指導者とする自由将校団であった。
ナセル(1918〜70)は、アレクサンドリアの郵便局員の子に生まれ、陸軍士官学校を卒業(1938)した後、第二次世界大戦・パレスチナ戦争に従軍した。パレスチナ戦争の敗北から、腐敗した王政の打倒を目ざし、1948年に青年将校らと自由将校団(団長はナギブ)を結成した。
1952年7月23日、自由将校団はクーデターを起こし、国王ファルーク1世(位1936〜52)を追放した。そして翌1953年6月には共和国樹立を宣言し、ナギブがエジプト共和国初代大統領兼首相(任1953〜54)に就任した。
しかし、まもなくナギブは革命の徹底を主張するナセルと対立するようになり、1954年に失脚した。
ナセルはナギブを追放して首相(任1954〜56)となり、1956年には大統領(任1956〜70)に就任した。その後、ナセルはスエズ運河の国有化宣言(1956.7)を行い、スエズ戦争(第2次中東戦争、1956.10〜57.3)で政治的・外交的勝利を得、アラブ民族運動の中心的な指導者となった。
エジプト革命から6年後、1958年7月にはイラクでも革命が起こり、カースィム(カセム、1914〜63、イラクの軍人・首相(任1958〜63))らが王政を打倒し、共和国を成立させた(イラク革命)。