3 大戦後の東・東南アジアと南アジア(その1)
第二次世界大戦中に日本の侵略を受けた東・東南アジア諸地域では日本の敗戦後民族独立運動が高まり、ほぼ10年以内に続々と独立をとげた。
日本はポツダム宣言に基づいて連合軍に占領されたが、連合軍は実質的にはアメリカ軍のみで事実上はアメリカ軍による単独占領であった。
連合軍総司令部(GHQ)・総司令官マッカーサー(1880〜1964)は日本の非軍国化・民主化に取り組み、1945年10月には男女同権・労働者の団結権の保障・教育の自由化・専制の廃止・経済の民主化の五大改革指令を、11月には財閥解体の指令を、12月には農地改革の指令を出して民主的改革を進めた。
1946年5月には極東軍事裁判が開廷され、1948年11月には被告28名に対して東条英機ら7名に絞首刑・終身禁固16名・有期禁固2名の判決が言い渡された。
この間、1946年11月3日に国民主権・戦争放棄・基本的人権の尊重を三大原則とする日本国憲法が公布され、翌1947年5月3日に施行された。
朝鮮はカイロ宣言(1943.12発表)で戦後の独立が決められていたが、アメリカとソ連は1945年8月に朝鮮にいる日本軍の武装解除を北緯38度線を境にして以南はアメリカが、以北はソ連が分担することを協定した。そしてソ連軍は8月末までに北朝鮮全域を制圧し、アメリカ軍は9月8日に朝鮮に進駐して南朝鮮に軍政を布いた。
1945年12月に開かれたモスクワ外相会議では、最高5カ年を期限として朝鮮を米英ソ中4カ国の信託統治下に置くこと、朝鮮臨時政府の樹立を協議するために米ソ共同委員会を組織することが決められた。しかし、米ソは朝鮮の独立に至る方法をめぐって対立した。
1947年9月、アメリカは朝鮮の問題を国際連合に提訴し、ソ連の反対を押し切って国連朝鮮委員会を設置し、その監視下で南朝鮮単独選挙を行うという案を採択させ(1948.2)、1948年5月に南朝鮮で総選挙を強行した。
この南朝鮮単独選挙に対しては朝鮮人の間で強い反対運動が起こったが、1948年8月、30年以上国外にあって独立運動を指導し、アメリカから帰国した李承晩(イスンマン、1875〜1965、任1948〜60)を初代大統領とする大韓民国が南朝鮮に成立した。
一方、北朝鮮には満州で抗日武装闘争を指導し、独立運動に奔走した金日成(キムイルソン、1912〜94)を首相(任1948〜72、1972年以後は主席)とする朝鮮民主主義人民共和国が成立し、朝鮮半島の南北の分断・対立が始まった。
中国では、すでに第二次世界大戦の末期から国民党と共産党の対立が再燃していたが、日本の降伏後の1945年11月から国民党と共産党は各地で衝突し、翌1946年7月から全面的な内戦が開始された。
内戦が始まって約1年間はアメリカの支援を受けた国民党軍が優勢であったが、1947年6月末から共産党の反攻が開始され、1948年に入ると形勢が逆転し、1949年1月には人民解放軍(中国共産党が指導する軍隊、1947年3月に改称)が北京に入城した。
そして1949年10月1日、毛沢東を主席とし、周恩来を首相とする中華人民共和国の成立が宣言された。共産党との戦いに敗れた蒋介石は同年12月に台湾に逃れ、ここで中華民国(国民政府)を維持した。
フィリピンはすでに1934年にアメリカから10年後の独立を約束されていたが、1941年末から1944年10月まで日本軍に占領された。
戦後の1946年7月に独立を宣言し、フィリピン共和国となった。しかし、軍事上・経済上の対米依存は長い間続き、汚職や腐敗が絶えなかった。
こうした中で、抗日ゲリラ組織であったフクバラハップ(通称フク団)は地方の貧農などに支持されて土地改革をめぐって政府と対立した。フク団は1950年に新人民軍に改編されて反乱を起こしたが、1955年に鎮圧された。
この間、フィリピンは1951年8月に米比相互防衛条約を結んでアメリカの反共陣営に加わった。また1953年に大統領となったマグサイサイ(1907〜57、任1953〜57)は国民的人気のもとで土地改革など刷新政治を進めたが、飛行機事故で死亡した。
1940年9月にフランス領インドシナ北部に進駐した日本は翌1941年7月にはフランス領インドシナ南部にも進駐した。日本軍は1945年3月にフランス軍を武装解除してヴェトナムに名目的な独立を与え、阮朝最後の皇帝バオ=ダイ(位1925〜45)に独立を宣言させた。
この間、ホー=チ=ミンはヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)を組織し、対日武装抵抗を行い、ヴェトナム独立運動を指導した。ヴェトミンは日本の降伏の3日前にヴェトナム全土で武装蜂起し、ハノイに入城して8月25日にはバオ=ダイを退位させ、27日にはヴェトナム民主共和国臨時政府を樹立した(八月革命)。
1945年9月2日、ヴェトナム民主共和国の独立が宣言され、初代大統領にホー=チ=ミン(1890〜1969、任1945〜69)が就任した。しかし、フランスはこれを認めず、南部(コーチシナ)はフランスの領土であるとして1946年6月にコーチシナ共和国臨時政府を樹立した。
ヴェトナム民主共和国はコーチシナ共和国臨時政府の樹立に抗議し、両者の対立が強まる中で、1946年12月19日、ハノイでの衝突を機に全面戦争に突入した(インドシナ戦争、1946.12〜54.7)。
インドシナ戦争は初めアメリカの援助を受けたフランス軍が圧倒的に優勢であったが、ヴェトナム民主共和国軍はゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。
フランスは1949年6月にバオ=ダイを元首とするヴェトナム国(首都サイゴン)を樹立し、アメリカとイギリスは1950年2月にヴェトナム国を承認した。
ヴェトナム民主共和国軍は中国(中共)・ソ連の援助を受けて1950年頃から反攻に転じ、1953年以後大攻勢に出た。そして1954年初めまでに北ヴェトナムをほぼ支配下に置き、1954年5月にはフランス軍の拠点であったディエンビエンフーを陥れた。
1954年4月から開かれていたジュネーヴ会議では、ディエンビエンフーの陥落を機に休戦の話し合いが進められ、1954年7月21日にジュネーヴ休戦協定が結ばれ、8年間に及んだインドシナ戦争が終った。
ジュネーヴ休戦協定では、北緯17度線を暫定的な軍事境界線とし、2年後に南北統一のための総選挙を行うことが約束された。しかし、アメリカとヴェトナム国(バオ=ダイ政権)はジュネーヴ休戦協定に調印せず、フランス軍撤退後はアメリカが南のヴェトナム国を支援した。
ヴェトナム国では、1955年10月に行われた国家主席を選ぶ選挙でゴ=ディン=ディエム(1901〜63、任1955〜63)がバオ=ダイに大勝して初代大統領に就任し、国名をヴェトナム共和国とした。
ゴ=ディン=ディエムはジュネーヴ休戦協定に調印しなかったアメリカの支援を受け、南北統一選挙を拒否して独裁政治を行ったので、ヴェトナムは南北に分断された。
一方、インドシナ戦争に勝利したヴェトナム民主共和国では、ホー=チ=ミンのもとで中ソの援助を受けて経済復興と社会主義建設が進められた。