1 戦後世界の出発

2 大戦後のヨーロッパ諸国

 1945年8月2日、米英ソ3国はドイツの非ナチス化・非武装化とフランスを加えた4国によるドイツの分割占領と共同管理、ベルリンの分割管理などを決めたポツダム協定に調印した。

 このポツダム協定によってドイツは東部(ソ連)・北西部(イギリス)・南部(アメリカ)・南西部(フランス)の4つの占領地区に分割・占領され、ベルリンについても同様に4つの占領地区に分割・占領されることとなった。

 また1945年11月から翌1946年10月までニュルンベルク国際軍事裁判が開かれ、ナチス=ドイツの戦争犯罪人の裁判が行われ、被告22名のうち12名が絞首刑・3名が終身刑・4名が禁固刑の判決を受け、3名は無罪となった。

 オーストリアもドイツと同様に米英仏ソ4カ国の分割管理のもとにおかれたが、1955年5月に米英仏ソはオーストリア国家条約(オーストリアとの講和条約)に調印し、オーストリアは主権を回復して永世中立国となった。

 1946年7月、連合国とイタリア・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・フィンランドの旧枢軸国5カ国との講和会議がパリで開かれ、1947年2月にパリ講和条約が結ばれた。これによって5カ国は軍備の制限と賠償を課せられ、領土を割譲した。

 西ヨーロッパと北ヨーロッパ諸国はそれぞれ戦後の再建に乗りだした。
 イギリスでは、1945年7月に10年ぶりの総選挙が行われ、労働党が圧勝した。当時ポツダム会談に出席中であった保守党のチャーチルは辞職し、労働党のアトリー(1883〜1967、任1945〜51)が首相となり、チャーチルに代わってポツダム会談に出席した。

 アトリー労働党内閣は「ゆりかごから墓場まで」のスローガンのもとで社会保障制度の拡充に努める一方で、イングランド銀行・炭鉱・鉄道・鉄鋼などの重要産業の国有化を進めた。また対外的にはインドの独立を認め(1947.7)、中華人民共和国を承認した(1950.1)。

 しかし、アトリー内閣は1949年以来の経済不況のなかでポンド切り下げ(1949.9)を行って国民の支持を失い、1951年10月の総選挙では保守党が勝利し、第2次チャーチル保守党内閣(1951.10〜55.4)が成立した。チャーチルは1955年4月に党首の地位をイーデン(1897〜1977、任1955〜57)に譲って引退した。

 1937年にイギリス連邦内の共和国として独立したエール共和国は、1949年4月にイギリス連邦から離脱し、アイルランド共和国として完全に独立した。

 フランスでは、1944年8月25日のパリ解放とともに、それまでロンドンで「自由フランス政府」を樹立して対ドイツ抗戦を唱え、レジスタンス運動を指導してきたド=ゴール(1890〜1970)がパリに入城し、臨時政府を樹立して連合国に協力した。

 1945年10月に行われた憲法制定国民議会選挙では共産党が第一党となったが、憲法制定国民議会ではド=ゴールが首班に指名され、ド=ゴール内閣が成立した。しかし、ド=ゴールは自分の憲法案が受け入れられなかったため、第四共和国憲法に反対し、1946年1月に辞職した。

 1946年10月、第四共和国憲法が制定され、翌1947年1月に第四共和政(1946.10〜58.9)が発足した。第四共和国憲法は第三共和国憲法の議会主義をさらに徹底させ、下院(国民議会)優位や婦人参政権等の特色を持つ憲法であった。

 しかし、第四共和政は小党分立のために短命内閣が続き(11年間に20回も内閣が交代した)、またインドシナやアルジェリアの植民地で独立運動がおこり、政局は不安定であった。

 イタリアでは、1944年6月の連合国によるローマ占領を機にバドリオが辞職した。その後、大戦の終結とともに共産党(西欧最大の共産党)・社会党・キリスト教民主党(カトリック政党、イタリア最大の政党となる)などの連立内閣が成立したが、1945年12月にはキリスト教民主党のガスペリ(1881〜1954)内閣(1945〜53)が成立した。

 そして1946年6月に行われた政体を決定する国民投票では、わずかの差で共和政支持派が勝利し、王制が廃止されて共和政となり、1948年1月に共和国憲法が施行された。

 この間、1947年2月には連合国とパリ講和条約を結び、その結果イタリアはエチオピア・アルバニア・リビア・ソマリランドなどのすべての海外植民地を失った。

 第二次世界大戦末期にソ連軍によってナチス=ドイツから解放された東ヨーロッパでは人民民主主義と呼ばれる政治形態をとる国々(ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラヴィア・アルバニア)が成立した。

 人民民主主義は第二次世界大戦中の反ファシズム闘争・大戦末期のソ連軍による解放の中から生まれた政治形態で、人民民主主義国家は社会主義革命を遂行する過程で共産党の一党独裁でなく、共産党を中心に人民戦線諸政党も参加する連合政権の形をとり、社会主義国家の成立を目ざした。

 1945年1月にソ連軍によって解放されたポーランドでは、同年統一政府が成立し、1952年に人民共和国憲法が制定されて人民共和国となった。

 東欧第一の工業国であるチェコスロヴァキアではナチス=ドイツから解放後の1946年の総選挙で共産党が第一党となり、共産党を中心とする連立政府が組織されたが、1947〜48年にかけてマーシャル=プラン(アメリカ国務長官マーシャルが提案したヨーロッパ経済復興援助計画)の受け入れをめぐって共産党と反共派閣僚の対立が表面化した。

 1948年2月、11名の反共派閣僚が連立内閣を辞任したことを契機に政治危機が生じた。警察・デモが動員される中で、ベネシュ大統領は2月25日に反共派を排除した新内閣を承認した(チェコスロヴァキア=クーデター、チェコ革命)。

 そして5月の総選挙では共産党が過半数を占め、翌6月には人民民主共和国が成立し、チェコスロヴァキアは共産圏に入った。このチェコスロヴァキア=クーデターはヨーロッパの冷戦に大きな影響を及ぼした。

 ハンガリーは第二次世界大戦では枢軸国側に立ったが、1944年にはソ連軍に占領され、同年臨時政府が樹立された。1946年2月には新憲法が制定され、王政が廃止されて共和国となり、1949年8月には人民共和国となった。

 ルーマニアも枢軸国側に立って参戦したが、ソ連軍によって解放され、1945年3月には民族民主戦線政府が成立した。そして1947年12月には王政を廃止して人民共和国を宣言した。

 ブルガリアも枢軸国側に立って参戦したが、1944年にソ連軍によって解放された。1946年に人民共和国を宣言し、翌1947年に人民共和国憲法を制定した。

 ユーゴスラヴィアは1941年4月にナチス=ドイツによって占領されたが、ティトーの指導のもとでパルチザン闘争を展開して自力で国土を解放した。1945年11月には王政が廃止され、連邦人民共和国が成立した。そしてティトーは1945年には首相、1953年には新憲法下で初代大統領に選ばれた。

 ティトー(1892〜1980)はクロアティアの農民の子に生まれ、第一次世界大戦に従軍してロシアの捕虜となり、帰国後共産党に入党して活躍した。第二次世界大戦中はティトーの変名を用いて対独パルチザン闘争を指導した。

 戦後、東欧初の人民共和国を建設して首相となり、独自の方式による社会主義建設を進めたがソ連中心主義と衝突し、1948年6月にユーゴスラヴィア共産党は民族主義的偏向を理由にコミンフォルム(共産党情報局)から除名された。

 ティトーはその後も労働者による自主管理と地方自治の尊重を原則とするティトー主義と呼ばれる独自の社会主義の道を歩み、対外的には非同盟中立政策をとった。

 1939年にイタリアに併合されたアルバニアは第二次世界大戦中に一時ドイツに占領されたが、パルチザン闘争を展開して1944年に解放された。そして1946年には王政を廃止して人民共和国を宣言した。




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