1 帝国主義の成立と列強の国情

6 アメリカ

 アメリカの資本主義は、南北戦争(1861〜65)後、めざましい発展をとげた。工業生産額は1860〜90年までの30年間に5倍に達し、1890年頃までにはイギリスを追い抜いて世界一の工業国となった。

 この間、主要な産業ではトラスト(企業合同)が形成され、独占と集中が進んだ。
 「石油王」として有名なロックフェラー(1839〜1937)が設立したスタンダード石油会社(1870設立)は1880年頃には全国の製油業の約90%を支配した。また「鉄鋼王」のカーネギー(1835〜1919)が設立したカーネギー製鋼会社はモルガンに売却されたが、売却前にはアメリカの鉄鋼の約25%を生産した。さらにモルガン(1837〜1913)が設立したU.S.スティール(1901年設立)はアメリカの鉄鋼の約65%を独占した。モルガンは鉄道投資で成功してモルガン商会を設立し、鉄道・製鉄・銀行を中心に多くの産業を傘下に収めてアメリカ最大のモルガン財閥を作りあげた。

 こうした独占資本による独占の弊害が大きくなると、これを防止して公正な自由競争を維持するために、1890年にシャーマン反トラスト法が制定されたが実効はあがらなかった。

 また資本主義の発展にともない労働運動が広がり、各種の労働組合組織が生まれ、1886年には全国的な組織としてゴンパース(1850〜1924)の指導の下でアメリカ労働総同盟(AFL)が結成された。AFLは熟練労働者によって組織された職能別労働組合の全国的な連合組織で、政治活動よりも労働条件の改善などの経済闘争に重点をおいた。

 アメリカが世界一の工業国となった1890年代には西部開拓の進展によってフロンティア(辺境)がついに消滅した。フロンティアが消滅するにつれて海外進出を唱える帝国主義的な傾向が強まる中で、アメリカはまずラテン=アメリカへの経済的な進出をはかった。

 共和党のマッキンリー大統領(第25代、任1897〜1901)はオハイオ州知事から大統領となり、高関税政策をとって大資本の利益を代弁し、対外的には米西戦争やハワイ併合などの帝国主義政策を推進した。

 ラテン=アメリカ諸国の中で独立が遅れたキューバでは、スペインの悪政に対して第1次独立反乱(1868〜78)のあと、1895年に第2次独立反乱が起こった。キューバは一時独立を宣言し、共和国の成立を宣言した(1895)。

 その頃、多くのアメリカ人がキューバのさとうきび産業(キューバは19世紀後半には世界一の砂糖生産国になっていた)に多額の資本を投下し、さとうきびのプランテーションや精糖工場を経営していた。独立反乱による抗争で農園や工場が損害を受け、スペイン人のキューバ人に対する残虐行為が新聞で取り上げられると、アメリカでは自国の権益を守るため、また独立運動への同情から干渉を要求する声が高まった。

 1898年2月、キューバのハバナ港内でアメリカ軍艦メイン号の爆沈事件(原因は不明)が起こると、アメリカはこれを口実にスペインに宣戦を布告し、米西戦争(アメリカ=スペイン戦争、1898.4〜98.12)が始まった。

 戦闘は4ヶ月で終わり、アメリカは一方的な勝利をおさめ、この間キューバ・フィリピン・プエルトリコを占領した。8月に仮講和、12月にはパリで講和が成立し、キューバの独立とフィリピン・グァム・プエルトリコのアメリカへの割譲が決定された。

 米西戦争後、1901年にアメリカはプラット条項を押しつけ、キューバと他国との条約や借款の制限・アメリカの干渉権・海軍基地建設などを認めさせ、キューバを事実上の保護国とした。

 また米西戦争中の1898年8月にはハワイを併合した。
 ハワイでは19世紀初めに、カメハメハ1世(1753頃〜1819、位1795〜1819)がそれまで4つの王国に分かれていたハワイ全島を統一し(1810)、以後カメハメハ王朝(1795〜1893)が19世紀末までハワイを統治した。

 この間、1875年頃から本国から移住してきたアメリカ人によるさとうきび産業が盛んとなった。

 1891年に即位したリリウオカラニ(ハワイ王国最後の女王、有名な「アロハオエ」の作詞者)が即位し、民族主義的な政策を強めると、ハワイ在住のアメリカ人は自分たちの権益を守るために反乱を起こし、女王は王位を追われた。

 リリウオカラニの退位後、アメリカ人による併合運動が強まる中で、マッキンリー大統領により併合条約が成立し、1898年にハワイはアメリカ合衆国に併合された。

 米西戦争によってフィリピン・グァム島を領有したアメリカは、1899年9月に国務長官ジョン=ヘイが門戸開放宣言(ジョン=ヘイの三原則)を発表し、門戸開放・機会均等・領土保全を提唱し、中国の分割への割込みと中国への経済的進出をはかった。

 マッキンリーは再選された(1900)が無政府主義者に暗殺され(1901.9)、副大統領のセオドア=ローズヴェルト(ルーズヴェルト)が大統領に昇格した。

 セオドア=ローズヴェルト(1858〜1919、第26代、任1901〜1909)は、共和党から下院議員として政界に入り、その後ニューヨーク州知事を経て副大統領となり、マッキンリーの暗殺で大統領に昇格した。

 セオドア=ローズヴェルトは、内政では革新主義(進歩主義)を唱え、大資本・大企業の専横を抑えるために反トラスト法(1890年制定)を厳格に適応して独占資本を抑制するなど社会改革に努めた。

 外交面では、カリブ海政策(カリブ海をアメリカの内海にしようとするアメリカの帝国主義政策)を推進した。パナマのコロンビアからの独立を支援し、独立したパナマ共和国からパナマ運河の租借権を得て、1904年にパナマ運河の建設に着手した。

 カリブ海沿岸諸国に対するセオドア=ローズヴェルトの外交は「棍棒をたずさえ、おだやかに話せ」を方針としたので「棍棒外交」と呼ばれた。

 セオドア=ローズヴェルトは日露戦争を調停した功績でノーベル平和賞を受賞し(1906)、一度は政界を引退したが、1912年の大統領選挙には革新党を結成して出馬してウィルソンに敗れた。

 民主党のウィルソン大統領(1856〜1924、任1913〜21)は、プリンストン大学政治学教授・同学長・ニュー=ジャージー州知事を経て、「新しい自由(New Freedom)」を掲げて大統領選挙に当選し、1913年に第28代大統領に就任した。

 ウィルソンは革新政治を推進し、反トラスト法の制定・関税の引下げなどの改革を行い、少数特権者の権力打破・国民の利益の増進に努めたが、その在任中に第一次世界大戦が勃発した。




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