4 連合国の勝利(その2)
1943年1月、ローズヴェルトとチャーチルはモロッコのカサブランカで会談を行い(カサブランカ会談)、北アフリカと地中海での反攻作戦を協議し、シチリア上陸を決定した。
そしてイタリア降伏後の1943年11月にはカイロでローズヴェルト・チャーチル・蒋介石が対日戦と対日戦後処理の方針について会談し(カイロ会談)、その内容はカイロ宣言(1943.12)として発表された。カイロ宣言では日本に無条件降伏を要求すること、降伏後の日本の領土については第一次世界大戦以後に日本が獲得した太平洋諸島の放棄、満州・台湾・澎湖島の中国への返還、朝鮮の独立などが決められた。
ローズヴェルトとチャーチルはそのままカイロからテヘランに飛び、スターリンが加わって1943年11〜12月にテヘラン会談が行われた。テヘラン会談では、3国の協力と戦争遂行の決意が表明され、主に第二戦線の問題について協議が行われた。
第二戦線とは、西ヨーロッパでの対独反攻作戦のことで、独ソ戦開始以来ほとんど独力でドイツ軍と戦って大きな犠牲を出していたソ連がその実行を米英に強く要求していた。チャーチルは第二戦線の形成には消極的でその延期とバルカン半島への攻撃を主張したが、ローズヴェルトは積極的でスターリンとともに北フランスへの上陸を主張した。結局スターリンの強い要求で北フランスへの上陸作戦を1944年5月に実行することが確認され、1944年6月のノルマンディー上陸作戦によって実現することになる。
1944年6月6日、アイゼンハウアー連合国軍総司令官の指揮のもとで航空機1万3000機・艦船6000隻・兵員100万を動員したノルマンディー上陸作戦(史上最大の作戦と呼ばれている)が開始された。そしてノルマンディー上陸作戦の成功によって第二戦線が成立し、東西からドイツ軍を挟撃する態勢が出来上がった。
ノルマンディー上陸後、パリに進撃する連合国軍に呼応してフランスのレジスタンス組織が各地で蜂起して連合国軍の進撃を助けた。8月19日にはパリで民衆の蜂起が始まり、1944年8月25日、連合国軍がパリに入城し、ド=ゴールもパリに帰還した。
この間、ソ連軍は1944年春にはクリミア・ウクライナのドイツ軍を撃退し、やがて旧ソ連領を奪回するとともに、1944年6月には国境を越えてポーランド・ルーマニアに侵攻した。
ドイツ軍は、西部戦線では1944年12月からベルギーのアルデンヌで最後の攻勢に出たが、連合国軍に押し戻され、以後は撤退を続けた。
連合国軍は1945年3月にはライン川を渡ってドイツ領内に入り、4月にはエルベ川を渡ってベルリンに迫った。
一方、ソ連軍も1945年1月にワルシャワを陥れ、以後東プロイセンとシュレジェンを席巻し、4月にはオーデル川を渡ってベルリン郊外に迫った。
1945年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕でピストル自殺した(服毒自殺説もある)。
1945年5月2日、ついにベルリンは陥落し、5月7日にドイツは無条件降伏した(ソ連に対する無条件降伏文書に署名したのは8日)。
ドイツ降伏の3ヶ月前、1945年2月にローズヴェルト・チャーチル・スターリンはクリミア半島のヤルタで会談した(ヤルタ会談)。その結果、ヤルタ協定が結ばれ、米英仏ソ4国によるドイツの占領管理・ドイツ戦争犯罪人の処罰・ドイツの非武装化・ポーランドとチェコスロヴァキアに新政権を樹立すること・国際連合設立のためにサンフランシスコ会議を召集することなどが決められた。また秘密協定で、ドイツの降伏後2〜3ヶ月以内にソ連が対日参戦すること、南樺太・千島のソ連帰属なども決められた。
イタリア・ドイツの降伏によって残るは日本だけになった。
アメリカ軍は1943年5月以後、北太平洋のアリューシャン列島で反攻を開始し、アッツ島の日本軍守備隊を全滅させ、またニューギニア島・ソロモン諸島でも反攻を開始した。
さらにハワイから西進してマーシャル諸島・カロリン諸島・マリアナ諸島をめざし、1944年6月にはサイパン島に上陸した。サイパン島で日本軍は玉砕し(1944.7)、以後アメリカ軍はサイパン島を基地としてB29長距離爆撃機による日本本土爆撃を開始した。
アメリカ軍は1944年10月にはフィリピンのレイテ島に上陸し、翌1945年2月にはマニラを奪回し、3月には硫黄島を攻略した。そして4月1日には沖縄に上陸を開始し、6月23日に沖縄を占領した。
この間、アメリカ軍爆撃機による本土空襲は1944年11月以後本格化していたが、1945年3月以後は硫黄島・沖縄を基地として本土爆撃を強め、連日にわたる空襲によって東京をはじめ(東京大空襲、1945.3)とする主要都市のほとんどが焦土と化した。
1945年7〜8月、アメリカ大統領のトルーマン(ローズヴェルトの死(1945.4)によって副大統領から昇格)・チャーチル(7月末の総選挙で敗れて総辞職し、途中から労働党のアトリーが参加)・スターリンがベルリン郊外のポツダムで会談し(ポツダム会談)、ドイツの非ナチス化・非武装化と連合国の管理などを定めたポツダム協定に調印した。また日本については日本の降伏条件と戦後の日本の管理方針を協議し、蒋介石の同意を得て、7月26日にポツダム宣言として発表した。
ポツダム宣言では、日本の降伏条件として軍国主義の除去・領土の占領・領土の制限(日本の領土を本州・北海道・四国・九州および周辺の諸小島とすること)・日本軍の武装解除・戦争犯罪人の厳罰と民主主義の確立・日本の無条件降伏などが決められた。
しかし、鈴木内閣(1945.4〜45.8)は軍部に強制されて、ポツダム宣言を黙殺すると述べたので、連合国は日本がポツダム宣言を拒否したものとみなし、アメリカ軍は8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下した。
一方、ソ連はヤルタ協定に基づいて日ソ中立条約を破棄して8月8日に日本に宣戦し、満州に進撃を開始した。
こうした状況の中で、ついに日本政府は8月14日にポツダム宣言受諾を決定し、1945年8月15日、天皇の「玉音放送」によって全国民に伝え、ここに6年間に及んだ第二次世界大戦は終わった。