5 第二次世界大戦

4 連合国の勝利(その1)

 第二次世界大戦は、1942年夏頃までは枢軸国(日独伊三国同盟側に属した諸国)側が優勢であったが、1942年6月のミッドウェー海戦と、1942年8月に始まったスターリングラードの攻防戦を機に連合国側が反撃に転じた。

 1942年6月、中部太平洋で戦われたミッドウェー海戦で日本海軍は空母4隻と300機以上の飛行機・兵員約3500を失って惨敗した。

 ミッドウェー海戦の勝利によって太平洋戦線の主導権を握ったアメリカ軍は、同年8月ガダルカナル島へ上陸した。ガダルカナルの確保に全力をあげた日本軍はアメリカ軍と死闘を繰り返したが、制空権を奪われた日本軍は大損害を出して1943年2月にガダルカナルを撤退し、以後敗退を重ねた。

 一方、独ソ戦の長期化によって石油の確保が不可欠となったドイツは夏季攻勢の目標をバクー油田などコーカサス地方の油田の確保におき、ヴォルガ河畔の重要都市であるスターリングラードを占領しようとした。

 1942年8月22日、ドイツ軍はスターリングラードに総攻撃を開始してこれを包囲し、9月には市内に突入して激しい市街戦を行った。しかし、11月になると猛吹雪の中でソ連軍は大反撃を開始し、逆にドイツ軍を包囲した。

 ドイツ軍司令官はスターリングラードから撤退して戦線を立て直そうとしたが、ヒトラーはスターリングラードの死守を命じた。ソ連軍は翌年1月に2度にわたってドイツ軍に降伏を勧告したが、ヒトラーは降伏を許可せず、ソ連軍の猛攻によって約30万のドイツ軍は壊滅し、1943年2月初めにドイツ軍司令官は約9万の将兵とともに降伏した。
 このスターリングラードの攻防戦は第二次世界大戦の転機となり以後ドイツ軍の敗退が始まった。

 これより先、連合国は1942年10月から北アフリカで反撃を開始していた。モントゴメリー(イギリスの軍人)指揮下の連合国軍はエル=アラメイン(アレクサンドリアの西方)でロンメル(ドイツの軍人)指揮下の独・伊軍を破ってエジプトから駆逐し、さらに進撃を続けて翌年1月にはトリポリを奪った。またアイゼンハウアー(アメリカの軍人、後に第34代大統領となる)指揮下の連合国軍はアルジェリア・モロッコに上陸し、モントゴメリー軍と呼応して独・伊軍を東西から挟撃する作戦に出た。連合国軍は1943年5月にはチュニジアを占領し、北アフリカの独・伊軍が降伏し、北アフリカ戦線は終わった。

 北アフリカを奪回した連合国軍は、1943年7月10日にシチリア島に上陸・占領し、さらにイタリア本土に迫った。
 こうした状況の中でイタリアでは、1943年7月24日にファシスト大評議会が開催され、立憲王制への復帰とムッソリーニの統帥権剥奪が決議された。翌日、ムッソリーニは国王によって首相を解任され、逮捕・投獄された。そしてバドリオ(1871〜1956、エチオピア侵入の総司令官)政権が成立し、ファシスト党は解散させられた。

 1943年9月、連合国軍がイタリア本土に上陸すると、バドリオ政権は9月3日に連合国と休戦条約を結び、1943年9月8日に無条件降伏した。

 これに対してヒトラーはドイツ軍にイタリア中部・北部を占領させるとともに、ムッソリーニを獄舎から救出し(9月12日)、北イタリアにムッソリーニを首班とする「ファシスト共和国」を樹立した。

 ファシスト共和国は戦争継続を宣言したので、以後イタリアは二分された。なおムッソリーニは、1945年4月28日にスイス国境のコモ湖付近でパルチザンによって銃殺され、遺体はミラノの広場に吊された。

 連合国はすでに1941年に戦後の構想を示していた。独ソ戦開始による戦争の拡大を前にアメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相は大西洋上の軍艦で会談を行い(大西洋上会談)、1941年8月に大西洋憲章を発表した。全8条からなる大西洋憲章では領土不拡大・領土不変更・民族自決・貿易の自由と拡大・労働条件と社会保障の改善・海洋の自由・軍備縮小・平和機構の再建が謳われていた。

 太平洋戦争が始まると、連合国26カ国は大西洋憲章に基づいて連合国共同宣言を発表し(1942.1)、第二次世界大戦の戦争目的をファシズムに対する民主主義の戦いと位置づけた。




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