3 太平洋戦争
日中戦争(1937.7〜45.8)が長期化・泥沼化する中で、日本は南京に親日政権である汪兆銘政権を樹立(1940.3)したが支持が得られず、事態の収拾に苦しんでいた。
その頃、ヨーロッパではドイツが西部戦線の膠着状態を破ってデンマーク・ノルウェーに侵入し(1940.4)、さらにオランダ・ベルギーに侵入した(1940.5)。そして1940年6月にはパリを占領し、フランスを降伏に追い込んだ。
こうした情勢の中で、日本では南進論(フランス領インドシナ・オランダ領東インドのゴム・石油などの資源の獲得を目ざす南方進出政策)が高まり、独・伊との提携の動きが再び活発になった。
1940年9月23日、日本軍は援蒋ルート(重慶の蒋介石政権に対するアメリカ・イギリスの援助ルート、フランス領インドシナ・雲南を経由する仏印ルートとビルマルートの2つがあった)の遮断と南進を目的とし、フランスの敗北に乗じてフランス領インドシナ北部(北部仏印)に進駐した。そして4日後の9月27日には日独伊三国同盟に調印した。
このフランス領インドシナ北部進駐と日独伊三国同盟の調印によって、満州事変以来、特に日中戦争の勃発以来悪化していた日米関係は急速に悪化した。
すでにアメリカは、1939年7月に日本の中国侵略に抗議して日米通商条約破棄を通告(翌年1月発効)していたので、石油・鉄鋼などの軍需物資の多くをアメリカに依存していた日本は日米関係の悪化を防ぐ必要に迫られていた。
そのため、日本は1941年4月から駐米大使野村吉三郎とアメリカ国務長官ハル(1871〜1955)との間で日米交渉を開始した。しかし、アメリカは日本軍の中国からの撤兵と三国同盟からの脱退を要求し、日本軍部が譲らず、日米交渉は難航した。
日米交渉中に、日ソ中立条約(1941.4)を結んで北方の安全を確保した日本が、1941年7月28日にフランス領インドシナ南部(南部仏印)に進駐すると、さらに態度を硬化させたアメリカは7月に在米日本資産を凍結し、8月には石油など重要軍需物資の対日輸出を一切停止した。
そしていわゆるABCDライン(Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは中国、Dはオランダを指す、対日包囲網を形成した4国の頭文字をとってこう呼んだ)を形成して日本の南進政策に対抗したので、日本は完全に孤立した。
1941年9月6日、御前会議で「帝国国策推進要領」が決定され、日米交渉でのアメリカ案を拒否し、10月上旬に至っても日本の要求貫徹の見込みがないときには開戦を決意することとなった。10月18日に東条英機内閣(1941.10〜44.7)が成立し、対米交渉最終案を決定してアメリカと交渉した。
アメリカは日本の最終案に対して、11月26日にいわゆる「ハル=ノート」(アメリカ国務長官ハルが提示したアメリカ側の最終提案)で、中国及びフランス領インドシナからの全面撤退・汪兆銘政権の否認・三国同盟の破棄・満州事変以前の状態に戻すことを要求した。
「ハル=ノート」は日本としては到底受け入れられるものでなかったので、12月1日に開かれた御前会議では対米英蘭開戦と開戦日12月8日が決定され、1941年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾(Parl Harbor)のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、アメリカ・イギリスに宣戦を布告して太平洋戦争(1941.12.8〜1945.8.15)に突入した。
日本は開戦と同時にマレー半島に上陸し、フィリピン・香港を攻撃し、香港(1941.12)・マニラ(1942.1)・シンガポール(1942.2)を占領し、この間グァム島(1941.12)・ウェーク島(1941.12)・ラバウル(1942.2)などの太平洋諸島を攻略・占領した。
さらに日本はビルマ作戦を開始してラングーンを占領する(1942.3)一方で、豊富な石油資源を確保するために蘭印(オランダ領東インド)作戦を開始し、ジャワ島に上陸してオランダ軍を降伏させた(1942.3)。
緒戦に勝利した日本は、開戦以来約半年で東南アジアのほぼ全域と西南太平洋の諸島を占領下においた。
日本は「大東亜共栄圏」の建設を唱え、欧米諸国による植民地支配を打破して日本を中心とする共栄圏を東アジアに樹立することを謳ったので、占領地では当初日本軍を欧米諸国からの解放軍として迎えるところもあった。しかし、日本の占領政策の目的は資源の確保と軍隊の自活にあり、戦争遂行のために占領地域の人々の独立の要求を無視して占領地域の資源と労働力を収奪したので各地で諸民族の反抗をまねくこととなった。
日本は占領下のフィリピン・インドネシア・ビルマに親日政権を樹立させ、1943年11月に中華民国(汪兆銘政権)・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示しようとした。
日本の植民地であった朝鮮では、日中戦争の開始(1937.7)とともに神社参拝が強制され、学校では「皇国臣民の誓詞」の斉唱などの「皇民化」が進められた。また翌年の朝鮮教育令の改正によって日本語の常用と朝鮮語禁止が強制された。1939年にはいわゆる「創氏改名」(朝鮮人に日本式氏名を強制的に名乗らせる政策)が公布され、朝鮮人の強制連行(1939〜41は募集式、1942〜43は官斡旋式、1944〜45は徴用方式)も始まった。
日本語教育を中心とする「興亜教育」(皇民化教育)はインドネシアをはじめとする東南アジアの占領地でも行われた。
太平洋戦争の開始から約半年間は日本軍が優勢であったが、1942年6月のミッドウェー海戦の敗北によって日本は制海・制空権を失い、以後敗退への道をたどることになった。