2 ドイツの短期決戦の失敗と占領地支配(その2)
1940年6月末、ドイツが西部戦線に全力をあげている間に、ソ連はルーマニアに侵略し、ベッサラビアを占領した。
ドイツはルーマニアから大量の石油を輸入しており、これがなければ戦争遂行がきわめて困難となるので、ソ連のルーマニア侵略に危機感を抱いたドイツは、1940年10月、ルーマニアに侵入した。
1940年9月27日、ドイツは日独伊三国同盟を結んで三国の軍事面での提携を強化し、同年11月にハンガリーとルーマニアを三国同盟に参加させた。
翌1941年3月初めにはブルガリアを三国同盟に参加させ、ドイツ軍はブルガリアに進駐した。また3月末にはユーゴスラヴィアも三国同盟に参加させた。しかし、ユーゴスラヴィアで政変が起こり、ユーゴスラヴィアがいったん加入した三国同盟を脱退すると、ドイツは1941年4月にギリシアとユーゴスラヴィアに侵入し、これを制圧した。
ドイツのバルカン作戦は1941年4月末までに終わったが、ドイツのバルカン進出は独ソ関係を緊張させ、ソ連はドイツのバルカン進出にそなえて1941年4月13日に日ソ中立条約を結んだ。
日ソ中立条約は、南方進出をはかるために北方の安全を確保しようとする日本と、ドイツのバルカン進出にそなえて背後の安全の確保をはかろうとするソ連が、中立の維持と相互不可侵を約した条約で有効期間は5年であった。
1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、突如ソ連に侵入を開始し、独ソ戦(独ソ戦争)が始まった。ドイツは、ドイツ軍300万を主力にイタリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニア軍も動員し、強力な戦車隊と航空機の援護のもとにソ連領に侵入した。
ドイツ軍は電撃戦によって快進撃を続け、レニングラードを包囲し、モスクワに迫り、ウクライナ地方を占領した。10月初めにドイツ軍はモスクワの西方約60kmにまで迫ったが11月にはいると寒波が到来し、11月下旬からのモスクワ総攻撃はソ連軍の抵抗と冬将軍に阻まれ、ついに12月6日モスクワから退却を始めた。
独ソ戦が始まると、イギリスはソ連と相互援助条約を結び(1941.7)、アメリカもイギリスとともにソ連に対して武器貸与などの援助を行った。
アメリカは、すでに1941年3月に武器貸与法を成立させ、イギリスに武器や軍需品の援助を行っていたが、それをソ連にも適用した。これに対してソ連はアメリカ・イギリスなどの連合国との協調を強めるために、1943年5月にはコミンテルンを解散した。
こうして第二次世界大戦は独ソ戦の開始以来、ファシズム諸国と反ファシズム諸国との戦い(ファシズム対民主主義の戦い)になった。
独ソ戦は冬にはいるとソ連軍の抵抗と寒さのためにドイツ軍の進撃がとまり、ドイツがもくろんでいた短期決戦は失敗に終わった。
戦争の長期化とともにドイツは戦時経済を支え、さらに戦時生産力を増強するために占領諸地域の資源や労働力を収奪した。特に東方の占領諸地域から食料・原料・石油・鉱石・機械などを奪い、兵員の徴募の強化や軍需産業の拡大によって労働力不足が深刻になると、全占領地域で外国人労働者を強制連行し、強制労働に服させた。
さらにナチスの人種差別政策を占領地においても実行し、劣等人種としたユダヤ人やポーランド人を主とするスラヴ系住民に対して強制移住・強制収容所への収容・大量殺戮を行った。各地からアウシュヴィッツをはじめとする多くの強制収容所へ送られたユダヤ人は、労働に耐えうる強健な者は強制労働に服させ、そうでない者は毒ガスで殺された。
こうしたドイツの占領政策に対する抵抗運動が各地でさまざまな形で起こった。特にフランスのレジスタンスとティトーのパルチザンが有名である。
レジスタンスはファシズム支配に対する非合法抵抗運動を意味するが、特にフランスでドイツ軍とヴィシー政権に対して行われた抵抗運動が最も有名で、1944年夏のフランス解放に大きな役割を果たした。
またパルチザンは武器や装備の劣る不正規軍が行うゲリラ戦術で、正面決戦を避けて敵を消耗・疲弊させるために奇襲や後方撹乱を行った。ユーゴスラヴィアのティトー(1892〜1980)が行ったパルチザン闘争が最も有名である。ティトーはユーゴスラヴィアがドイツに降伏した直後からパルチザン部隊を編成し(1941.6)、ドイツ占領軍に対してパルチザン闘争を指導した。