5 第二次世界大戦

2 ドイツの短期決戦の失敗と占領地支配(その1)

 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランド侵攻を開始し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦して第二次世界大戦が始まった。

 ドイツ軍は、1500機以上からなる空軍部隊と戦車・装甲車を主力とする150万の地上部隊を投入し、いわゆる電撃戦(航空機と機甲部隊による圧倒的な集中攻撃で短期間に敵を壊滅させる戦闘方式)によってわずか3週間でポーランド軍を壊滅させ、9月27日にはワルシャワを陥れた。

 この間、ソ連軍も1939年9月17日にポーランドへ侵入し、独ソ不可侵条約の秘密議定書でソ連の勢力範囲と定められていたポーランドの東半分を占領した。

 ドイツとソ連は、ワルシャワ陥落の翌日に独ソ友好条約に調印するとともにポーランド分割協定を締結した。これによってポーランドは再び地図から姿を消した。

 ソ連は、1939年9月〜10月にかけて、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの3国に相互援助条約の締結を強要し、軍事基地の譲渡とソ連軍の進駐を認めさせた。そして翌1940年8月にはバルト3国を正式に併合した。

 なお、独ソ不可侵条約(1939.8)の秘密議定書では独ソによるポーランド分割とフィンランド・エストニア・ラトヴィア及びベッサラビアをソ連の勢力範囲とすることが認められていたが、さらに独ソ友好条約(1939.9)によってリトアニアもソ連の勢力範囲に加えることが認められていた。

 ソ連はフィンランドに対してもカレリア地方などの領土割譲要求を突きつけ、フィンランドがこれを拒否すると、1939年11月にフィンランドに侵入し、ソ連=フィンランド戦争(1939.11〜40.3)を引き起こした。フィンランドはイギリス・フランスの支援を受けて一時はソ連軍を撃退したが、ソ連は大軍を投入してフィンランドを破り、カレリア地方などを奪った。

 ソ連=フィンランド戦争が始まると、フィンランドはソ連を侵略国として国際連盟に提訴し、国際連盟は1939年12月にソ連を除名した。すでに日・独・伊が国際連盟を脱退していたが、国際連盟から除名されたのはソ連だけである。

 第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍は9月末までにポーランドの西半分を占領したが、その間西部戦線ではイギリス・フランス軍は攻勢に出ず、両軍は対峙したままで何ら軍事行動を起こさなかった。そのため、このような状況は当時「奇妙な戦争」と呼ばれた。ヒトラーは10月にイギリスに対して和平を呼びかけたが、チェンバレンはこれに応じなかった。

 1940年4月9日、ポーランド侵攻以来鳴りをひそめていたドイツ軍が突如として行動を開始した。

 ドイツは同日、中立国のデンマークとノルウェーに対して最後通牒を突きつけ、ドイツ軍を進駐させた。そして最後通牒を受諾したデンマークを占領し、受諾を拒否したノルウェーを攻撃してオスロを占領した。ノルウェーはロンドンに亡命政権を樹立して抗戦を続けたが1940年6月に降伏した。

 ドイツ軍による西部戦線での大攻勢は、1940年5月10日、オランダ・ベルギーに対する奇襲攻撃で始まった。オランダは5日間で降伏し、ベルギーも5月末に降伏した。

 この間、ドイツ軍はセダン付近でマジノ線を突破し、ドーヴァー海峡へ進撃した。このためベルギー領内にいたイギリス・フランス軍はダンケルク(ドーヴァー海峡に臨むフランスの港市)へ退却し、30万以上の将兵がダンケルクからイギリス本土へ退却した(1940.5.27〜6.4)。

 1940年6月5日、ドイツ軍はソンム(パリの北方)で総攻撃を開始し、6月14日にはパリに入城した。

 ドイツ軍の破竹の進撃を見て、イタリアのムッソリーニは6月10日にドイツ側に立ってイギリス・フランスに宣戦した。

 フランス政府は、パリ陥落の3日前にパリからツールに移り、6月14日にはボルドーへ移った。2日後にレイノー内閣(1940.3、ダラディエ内閣の総辞職後に成立)は総辞職し、ペタン(第一次世界大戦で活躍したフランスの国民的英雄)内閣が成立したが、ペタン内閣は翌日ドイツに降伏し(1940.6.17)、6月22日に休戦条約を結んだ。

 その結果、フランスの国土の約5分の3はドイツの軍事占領下におかれ、残りの地域はペタン政権の統治下に置かれることになった。ペタンは国家元首の地位につき、中部フランスのヴィシーを首都とする対ドイツ協力政権を樹立したので、この政権は以後ヴィシー政府(1940.7〜44.8)と呼ばれた。ヴィシー政府は第三共和国憲法を廃止したので、ヴィシー政府の成立によって第三共和政(1870〜1940)は崩壊した。

 この間、ド=ゴール(1890〜1970、フランスの軍人・政治家)は、フランスの降伏と同時に、ロンドンで自由フランス政府の樹立を宣言し(1940.6.18)、対ドイツ抗戦を呼びかけてレジスタンス(非合法抵抗運動)を指導した。

 フランスの降伏によって西ヨーロッパで残ったのはイギリスただ一国となった。イギリスでは、1940年4月にチェンバレン首相が辞職し、これまでチェンバレンの宥和政策を批判してきたチャーチルが首相となり、チャーチル挙国連立内閣(1940.4〜45.7)が成立した。

 ヒトラーはイギリス本土上陸作戦を進めるには制空権を握ることが不可欠であるとし、1940年8月からイギリス本土に対する空襲を開始した。特に9月以降はロンドンをはじめとする(ロンドン大空襲)主要な工業都市に対する空襲を続け、激しい空襲は1ヶ月にわたって連日続けられた。

 しかし、イギリスはチャーチルの指導のもとでこの激しい空襲に耐え抜き、ドイツ軍のイギリス本土上陸を阻止した。




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