5 第二次世界大戦

1 ナチスの侵略と開戦

 再軍備宣言(1935.3)・ラインラント進駐(1936.3)を強行したヒトラーは、1937年11月に外相・国防相・陸海空軍の総司令官との秘密会議でオーストリアとチェコスロヴァキアを武力で併合する決意を表明した。

 オーストリアでは、すでに1934年7月にオーストリア=ナチス党員が政権獲得を企てて首相を暗殺するという出来事が起こっていた。この一揆は失敗に終わったが、以後ドイツから資金を得たオーストリア=ナチスによるテロが続いたので、オーストリア政府はナチスの取締りを強化していた。

 ヒトラーは、1938年2月12日にオーストリア首相をドイツに呼びよせ、軍事占領で脅しつつ、内相の地位をオーストリア=ナチス党員に与えること、投獄中のオーストリア=ナチス党員を釈放することなどの要求をつきつけ、これに署名させた。帰国したオーストリア首相が3月9日に国民投票を行うと発表すると、ヒトラーは11日に国民投票の中止などを要求する最後通牒を突きつけた。

 3月12日未明、ドイツ軍はオーストリアの新首相(オーストリア=ナチス党員)の要請に応ずるという形でオーストリアに進撃し、3月13日にオーストリア首相はドイツとの合併を宣言した。翌14日、ヒトラーはウィーンに入った。

 こうしてオーストリアを併合したヒトラーは次の目標をチェコスロヴァキアに向けた。
 チェコスロヴァキアの北西部、チェコとドイツの国境地帯はズデーテン地方と呼ばれ、多くのドイツ系住民が住んでいた。

 1938年9月、ヒトラーはズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けているとして、ズデーテン地方のドイツ人の民族自決権を援助するとの演説を行った。

 3日後にヒトラーと会見したイギリス首相ネヴィル=チェンバレン(1869〜1940、任1937〜40、保守党、ジョゼフ=チェンバレンの次男)は、「世界戦争も辞さない」というヒトラーに屈し、フランスとともにチェコに圧力をかけてズデーテン地方の割譲に同意させた。

 しかし、ヒトラーはズデーテン地方の即時割譲を要求し、チェコ政府が総動員令を発したので、戦争の危機が迫った。

 ヨーロッパの平和を維持するためにどうしても戦争を避けたいと考えていたチェンバレンはムッソリーニに調停を依頼し、国際会議の開催にこぎつけた。

 1938年9月29日、ズデーテン問題に関する英・仏・独・伊の4カ国首脳会議がミュンヘンで開かれた。このミュンヘン会議では、戦争で恫喝しつつズデーテン地方の即時割譲を求めるヒトラーに対して、イギリスのネヴィル=チェンバレンとこれに追随するフランスのダラディエ(1884〜1970、任1833、34、38〜40)は宥和政策をとり、ヒトラーからもうこれ以上の領土要求はしないという約束を得て、ズデーテン地方の即時割譲を認めるミュンヘン協定に調印した。10月1日、ドイツ軍はズデーテンに進駐した。

 宥和政策とは、第二次世界大戦前にイギリス・フランスがナチス=ドイツに対してとった妥協政策のことである。イギリス・フランスはナチス=ドイツが反共産主義を唱えているので、その侵略の矛先はソ連に向けられると考え、出来るだけナチス=ドイツとの対決を避け、その要求を受け入れる政策をとった。

 イタリアのエチオピア侵入(1935〜36)に対して英・仏がとった態度やスペイン内戦(1936〜39)に対して英・仏がとった不干渉政策も宥和政策の現れであるが、ミュンヘン会談でイギリスがとった政策が宥和政策の典型であった。

 ミュンヘン会談には、当事国のチェコスロヴァキアや隣接国のソ連は招かれなかった。このためソ連はイギリス・フランスがチェコスロヴァキアを犠牲にしてドイツの攻撃をソ連に向けさせようとしていると考え、イギリス・フランスに対して不信感を強めた。

 ミュンヘン会談によって戦争の危機は一時回避されたが、イギリス・フランスがとった宥和政策はヒトラーをますます増長させた。

 1939年3月15日、ヒトラーはミュンヘン協定を破ってチェコスロヴァキアを解体し、西半分のベーメン(ボヘミア)とメーレン(モラヴィア)を占領して保護領とし、翌日には東半分のスロヴァキアを保護国とした。これによって第一次世界大戦後に独立したチェコスロヴァキアは崩壊した。

 チェコスロヴァキアを手に入れたヒトラーは次の目標をポーランドに向け、1939年3月21日にポーランドに対してダンチヒ(ヴェルサイユ条約によって国際連盟管理下の自由都市とされていた)の返還とポーランド回廊(ヴェルサイユ条約で海への出口としてポーランドに与えられたドイツ本国と東プロイセンとの間の旧ドイツ領地帯)を通過する鉄道や道路の敷設権を要求した。

 先のチェコスロヴァキア解体に衝撃を受けていたチェンバレンは、このヒトラーの要求を見て、ようやく宥和政策を捨て、3月末にフランスとともにポーランドに対する援助を確約し、ポーランドもドイツの要求を拒否した。

 これに対してヒトラーは4月初めに、ポーランド攻撃の準備を9月1日までに完了することを命じ、4月末にはポーランドとの不可侵条約と英独海軍協定を破棄した。この間、ムッソリーニはアルバニアを併合し(1939.4)、ドイツと軍事同盟条約を結んだ(1939.5)。

 一方、イギリスとフランスは4月中頃からソ連と軍事同盟締結の交渉に入っていたが、両者は相互に不信感を抱いていたために、英・仏・ソ連の交渉ははかどらなかった。

 イギリス・フランスの真の目的はドイツを東方に向けさせてソ連と敵対させることにあると考えたスターリンは、ソ連が東アジアでも日本と敵対していたので(1939年5〜9月、満州西部国境で日ソ両国軍が衝突するノモンハン事件が起きていた)、イギリス・フランスとの交渉が進まない以上、ドイツと提携した方が得策と考えるようになった。

 ポーランド問題でイギリス・フランスと対立するようになったヒトラーも、ソ連と提携して背後を固めた方が得策だと考え、対ソ接近をはかった。

 その結果、ドイツとソ連は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を結んだ。このファシズムと共産主義両国の提携は全世界に衝撃を与え、翌々日の25日にはイギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を結んだ。

 1939年9月1日早朝、ナチス=ドイツは宣戦の予告もなしにポーランド攻撃を開始した。9月3日、イギリスはフランスとともにドイツに宣戦し、ついに第二次世界大戦(1939.9〜45.8)が始まった。




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