6 抗日民族戦線の成立と日中戦争(その2)
しかし、蒋介石は陜西省北部の共産党の根拠地に対する攻撃を続け、張学良の東北軍と楊虎城の西北軍を派遣して攻撃を命じた。
張学良の指揮する東北軍は、満州事変で故郷を追われて華北に移動した軍隊で、その将兵たちは満州にもどって日本軍と戦うことを望んでいた。内戦停止・一致抗日に傾いた張学良は共産党と協定を結び、1936年前半以後東北軍と共産党軍は停戦状態にあった。
1936年12月、紅軍との戦闘に消極的な張学良と楊虎城を督戦するために蒋介石は西安に乗り込んで来た。張学良は蒋介石に内戦停止と抗日の必要を強く訴えたが蒋介石はこれを拒否した。
ついに意を決した張学良は、1936年12月12日未明、西安郊外の華清池(玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで有名な地)にあった蒋介石の宿舎を軍隊で襲撃し、蒋介石を捕らえて監禁した。
張学良は、国民党の改組・内戦停止・政治犯の釈放など8項目を宣言し、蒋介石に政策の転換を迫ったが蒋介石はこれに応じず、新たな内戦の危機が迫った。この時、中国共産党は周恩来を西安に送って蒋介石を説得し、事件の平和的な解決に大きな役割を果たした。結局、蒋介石は説得に応じて内戦の停止など8項目を認めることを約束して25日に釈放されて南京に帰った。これが有名な西安事件である。
この西安事件を契機として、1927年以来10年に及んだ内戦は停止され、日中戦争が勃発すると第二次国共合作がなり(1937.9)、抗日民族統一戦線が成立した。
張学良は西安事件の責任をとって蒋介石の後を追って南京に赴いて逮捕され、国家元首を監禁した罪により懲役10年の判決を受けた。張学良は翌年特赦によって無罪となったが以後軟禁状態におかれ、歴史の表舞台から姿を消した。
1946年に重慶から台湾に移された後も自宅軟禁の生活が続いたが、1990年6月に90歳を祝う誕生パーティーが台北市で開かれ、張学良は約半世紀ぶりに公の場に姿を現して世界中から注目された。同月、NHKは張学良とのインタビューに成功し、翌1991年にNHKスペシャル「張学良がいま語る-日中戦争への道」として放映した。すばらしい番組であったので、私は授業で必ず生徒に見せた。張学良はその後ハワイに移り住み、2001年10月に100歳で没した。
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をしていた日本軍の頭上に10数発の小銃弾が飛んだ。誰が発砲したかについては不明であるが、日本軍は翌8日に宛平県城とその周辺の中国軍に攻撃を加え、これに中国守備隊が抵抗した。この盧溝橋事件が日中戦争(1937.7〜45.8)の発端となり、以後日中両国は全面戦争に突入した。
7月11日には停戦協定が結ばれた。しかし、最初は不拡大方針を表明した第1次近衛内閣(1937.6〜39.1)が同日、軍部の華北派兵を承認したので問題解決は困難となった。一方中国側でも共産党が7月8日に全民族の抗戦を呼びかけ、蒋介石も7月17日に抗戦の決意を表明した。
日本軍は、7月28日に総攻撃を開始し、天津・北京を占領し、8月13日には上海でも戦端を開いた。さらに華北の要地を占領し、12月13日には南京を占領した。この時、日本軍は多数の中国人を虐殺し(中国側の資料では30万人以上)、掠奪・暴行・放火を行い、世界から非難をあびた(南京虐殺事件)。
この間、1937年9月に中国では第2次国共合作が成立し、紅軍は八路軍と改称して蒋介石の統率下に入り、抗日民族統一戦線が成立した。
日本軍は、1938年10月には広東と武漢を占領したが、国民政府は政府を南京から武漢へ、さらに重慶へ移し(1938)、アメリカ・イギリス・ソ連の援助を受けて抗戦したので戦争は長期化・泥沼化し、早期解決は不可能となった。
近衛内閣は、1938年1月に中国との停戦協定を打ち切り、傀儡政権を立てる方針を固め、「国民政府を相手にせず」との近衛声明を発表し、戦争解決の道を自ら閉ざした。そして1940年3月、重慶を脱出してきた国民党の有力者である汪兆銘(汪精衛、1883〜1944)に新政権をつくらせ、重慶政府に対抗して南京にもう一つの国民政府を樹立した。しかし、この政権は日本の傀儡政権にすぎなかったので中国民衆の支持を得られず、成果をあげることは出来なかった。また同年11月には東亜新秩序の建設を声明し、侵略戦争を正当化しようとした。
日本は、1938年末までには華北・華中の大部分と広東周辺地域を占領したが、それは重要な都市とそれを結ぶ交通線を確保したにすぎず、周辺の農村は共産党や国民党軍の支配下にあり、日本軍はゲリラ戦に脅かされ、戦局の見通しがまったく立たなくなった。そのためこの状況を打開するために南方への進出を企て、1941年12月には太平洋戦争に突入していった。