5 日本軍部の台頭と満州事変
第一次世界大戦が終わった翌々年、日本は大戦景気の反動から戦後恐慌に襲われ、さらに関東大震災(1923.9)によって日本経済は大打撃を受けた。
そして1927年3月には震災手形(関東大震災のために支払えなくなった手形)の処理をめぐって金融恐慌がおこり、銀行・会社の倒産が続出した。
その直後に成立した田中内閣(1927.4〜29.7)は金融恐慌の処理にあたるとともに、対外的には中国に対して積極外交(強硬外交)を展開し、山東出兵(1927.5〜28.5)を行って済南事件(1928.5、日本軍と北伐軍の衝突事件)をおこした。しかし、田中内閣は張作霖爆殺事件(満州某重大事件、1928.6)の責任問題で退陣し、浜口内閣(1929.7〜31.4)が成立した。
浜口内閣の成立からまもなく世界恐慌が始まった。浜口内閣はこの時期に金解禁(1930.1)を断行したため、大量の金流出・企業の倒産・失業者の増大を招き、日本経済は深刻な不況に陥った(昭和恐慌)。
鉱工業生産は1926年を100とすると、1931年には75に落ちこみ、失業者は50万人近くに達し(帰農者を含めると300万人以上ともいわれている)、労働争議が多発した。また生糸・米の値段の暴落や北海道・東北の冷害・大凶作で農村の困窮が深刻化し、小作争議が激増し、欠食児童や娘の身売りなどが社会問題となった。
浜口内閣(外相は幣原(しではら)喜重郎)は対外的には協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、中国に対してもその主権を尊重し、内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護をはかった。
しかし、陸軍を主体とする軍部は、幣原外交を軟弱外交として非難し、これに強く反対した。特に政府が軍令部の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を調印したことは天皇の統帥権(とうすいけん、軍隊の指揮統率権)を犯すものだとして政府を激しく攻撃した。
こうした動きと結びついて、軍部内では世界恐慌による国内の危機を打開するために満州(当時の日本では中国東北地方をこう呼んでいた)・内蒙古全域を植民地とする、そのために満蒙問題を武力で解決するという動きが強まった。
1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍(関東州(旅順・大連とその付属地域)と南満州鉄道の警備を主任務とする日本陸軍部隊)の一部将校たちは奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自ら爆破し、これを張学良軍のしわざとして軍事行動を起こし(柳条湖事件)、翌朝までに奉天全市を占領した。
この日本軍の行動に対して蒋介石は不抵抗政策を命じ、張学良がそれに従ったので、関東はまたたくまに長春・営口・吉林など満鉄沿線の主要都市を占領した。
第2次若槻内閣(1931.4〜31.12)は不拡大方針を表明(1931.9.24)したが、関東軍はさらに満州全域に軍を進め、翌1932年2月にはハルビンを占領し、開戦以来約半年で熱河を除く満州全域をほぼ制圧した。そして1932年3月には満州国を建国した。これが満州事変(1931.9〜32.3)である。柳条湖事件は満州事変以後、日中戦争から太平洋戦争までの十五年戦争(1931.9〜45.8)の発端となった。
中国国民政府は日本の軍事行動に対して不抵抗政策をとるとともに、国際連盟に提訴した(1931.9.21)。しかし、いわゆるリットン調査団が編成されたのは1931年末で、調査団は1932年2月から9月にかけて中国・日本を視察して10月に報告書を提出したが、その時にはすでに満州国が建国されていた。
柳条湖事件に次いで、1932年1月には上海事変が勃発した。満州事変の勃発以来、排日運動が激化していた上海で日本人の日蓮宗僧侶が殺傷されるという事件(この事件も日本軍の謀略とされている)が起こると、日本軍は軍事行動を起こし、中国軍と激しい戦闘状態に入った。陸海軍の増援を得た日本軍は2月下旬から総攻撃を行い、激戦が続いたが、3月初めには中国軍が撤退したので戦闘はほぼ終わり、5月に停戦協定が結ばれた。
日本は、列強の目が上海に注がれている間に満州国建設の計画を進めた。日本は、当時天津の日本租界の近くに蟄居していた清朝最後の宣統帝溥儀(1906〜67、清朝皇帝・位1908〜12、満州国皇帝・位1934〜45)を天津から連れ出し(1931.11)、1932年3月1日に溥儀を執政とする満州国の建国を宣言した。その後満州国は帝政となったので溥儀は満州国皇帝となった(1934.3)。
日本は、1932年9月に満州国を承認し、日満議定書を結んだ。日満議定書で、満州国は日本がそれまで満蒙において持っていたすべての権益を承認し、日本の駐兵権を全国に拡大することを認めた。また満州国政府の重要なポストは日本人顧問・官吏が占めて実権を握ったので、満州国は完全に傀儡(かいらい)政権であり、事実上日本の植民地であった。
この間、日本国内では1932年5月15日に、海軍青年将校と右翼が首相官邸などを襲って犬養首相(任1931.12〜32.5)を暗殺するという五・一五事件が起こった。五・一五事件によって政党政治は終わりをつげ、以後軍部の発言権がますます強くなった。
1932年10月にはリットン調査団の報告書が発表された。報告書は、日本の満州における権益は保護されるべきであるとしながらも、満州事変を日本の侵略行為とし、満州国は満州人の自発的独立運動でないとして満州国を認めず、満州を中国の一部として強い自治権を持たせて国際連盟の管理下におくことを提案していた。
日本はこれに対して国際連盟理事会でただちに反駁する一方で、翌1933年1月には山海関を占領し、次いで熱河省(省都は承徳、現在の河北省の北部)を満州国の一部だとして攻撃を開始し(1932.2)、国際連盟を刺激した。
1933年2月24日、国際連盟総会でリットン調査団報告に基づく日本軍の満州撤退勧告案が42対1(反対の1は日本)で採択されると、松岡洋右(ようすけ)日本代表は席をけって退場し、日本は3月27日に国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩むことになった。
日本は、国際連盟脱退後、1933年4月には長城を越えて華北に侵入して北京に迫った。中国は停戦を申し入れ、5月末に塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれた。これによって中国は満州国の存在を事実上承認し、また長城以南に非武装地域をつくることを約束した。
日本は、1935年に入ると再び防共を名目として内蒙古・華北に進出し、非武装地域(河北省東部)に冀東(きとう)防共自治政府という傀儡政権を成立させ、国民政府からの分離・独立を宣言させた。