4 ファシズムの台頭

4 ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その2)

 ナチス支配下のドイツは第三帝国(1933〜45)と呼ばれる。第三帝国とは、第一帝国(神聖ローマ帝国)・第二帝国(ドイツ帝国)に次ぐ第三の帝国の意味である。

 ナチスは全体主義の思想のもとで民主主義を否定し、個人の自由・基本的人権は認めず、国民生活全体を厳しく統制した。特に反対派やユダヤ人に対しては突撃隊(SA、エス=アー)・親衛隊(SS、エス=エス)・秘密警察(ゲシュタポ)を利用して徹底して弾圧した。

 突撃隊は、1921年に創設されたナチスの直接行動隊で、初めはナチスの集会の防衛を任務としたが、やがて反対派に対するデモと暴力の行使を主任務とした。1926年以後は大衆組織として急速に勢力を拡大し、1933年頃には250万人を擁して国防軍と並ぶ強大な組織となり、国防軍と対立した。国防軍の支持を必要としたヒトラーは、1934年6月に突撃隊の幹部を粛清したので、以後は親衛隊が強力になった。

 親衛隊はヒトラー個人の身辺警護隊として1925年に創設された。1934年に突撃隊から独立し、最新の武器で武装し、占領地支配や強制収容所の運営を行い、後には秘密警察の役割も担った。

 ゲシュタポは、1933〜34年に設立された国家秘密警察で、あらゆる手段を用いて反ナチス分子やユダヤ人を徹底的に弾圧し、ナチスの恐怖政治のシンボルとなった。

 ヒトラーは19世紀にヨーロッパで高まった反ユダヤ人的人種論をもとに、ドイツ民族は世界で最も優秀な民族であり、その反対にユダヤ人は劣等民族で絶滅されるべき存在であるという極端な人種論を唱え、ユダヤ人を迫害した。

 1933年にはユダヤ人商店に対するボイコットやユダヤ人の公職からの追放を行い、1935年にはユダヤ人と4分の1以上ユダヤ人の血が混じっている混血者から市民権を剥奪し、ユダヤ人と非ユダヤ人との結婚を禁止した。

 そうした中で、1938年にはユダヤ人の商店の打ちこわしや虐殺が行われ、1942年にはユダヤ人絶滅政策が決定された。そして政治犯やユダヤ人を収容して強制労働を行わせ、あるいは大量虐殺を行うために強制収容所が各地に建設され、ユダヤ人の強制連行・大量虐殺が行われた。

 有名なアウシュビッツの強制収容所(現在のポーランド国内にあった)は1940年に建設された最大規模の強制収容所で、ここだけでも250万人のユダヤ人を含む400万人以上が虐殺されたといわれている。第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)では約500万人(1942年頃の全ヨーロッパのユダヤ人は約1100万人といわれている)のユダヤ人が虐殺されたといわれている。

 1932年を底として次第に回復しつつあったドイツ経済は、ナチスの支配下で復興に向かった。ナチスはアウトバーン(ドイツの高速自動車道路網)・土地改良工事・飛行場の建設などの大規模な土木事業に着手して失業者を吸収したので、失業者は1933年初めの約600万人から1935年初めには約300万人に減少した。

 1936年に開始された四カ年計画は「バターより大砲を」の軍需産業優先の軍備拡張計画であったが、これによって失業者数は1939年初めには約30万人に激減した。

 国内でファシズム体制を確立したナチスは対外的にも強硬な態度をとり、ヴェルサイユ体制の打破に乗りだした。

 1933年1月に政権を獲得したヒトラーは、ヴェルサイユ条約でのドイツの軍備制限の撤廃と軍備平等権を要求し、これが拒否されると、1933年10月に前年から開かれていたジュネーブ軍縮会議(1932〜34)と国際連盟からの脱退を宣言した(1933年3月には日本がすでに脱退していた)。

 そして1935年1月には住民投票によってザール地方のドイツ復帰を果たした。ザール地方は石炭などの資源に富むヨーロッパ有数の工業地帯であったが、ヴェルサイユ条約では国際連盟の管理下におかれ(炭田の採掘権はフランスに譲渡されていた)、帰属は15年後の住民投票で決定することになっていたが、1935年1月に行われた住民投票では91%の支持率でドイツに復帰した。

 1935年3月16日、ヒトラーはヴェルサイユ条約の中の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を復活し、軍隊を50万人に増強するという再軍備宣言を突然行い、ヨーロッパ中の国々を驚かせた。再軍備宣言では空軍の設立も宣言された。

 この再軍備宣言は全ヨーロッパに衝撃を与えた。イギリス・フランス・イタリアは同年4月にイタリアの都市ストレーザで会談を開き、ドイツの再軍備宣言を非難するとともに、ドイツの脅威に対して共同行動をとることを約束した(ストレーザ戦線)。

 ドイツの再軍備宣言に最も衝撃を受けたのはフランスであった。フランスはナチス=ドイツの進出に対抗するためにソ連との間に仏ソ相互援助条約を結び(1935.5)、ソ連もチェコとソ連=チェコ相互援助条約を結んだ(1935.5)。

 しかし、1935年6月にはイギリスがドイツと英独海軍協定を結び、ドイツに対英35%の軍艦と45%の潜水艦の保有を認めたのでストレーザ戦線は崩壊した。英独海軍協定は国際連盟の理事国であったイギリス自らがヴェルサイユ条約を無視し、ドイツの再軍備宣言を公認するものであったのでヴェルサイユ条約は事実上崩壊した。

 さらにヒトラーは、翌1936年に、ヨーロッパがムッソリーニのエチオピア侵入(1935.10〜36.5)で騒然としている中でラインラント進駐を行った。

 1936年3月7日、ヒトラーは前年の仏ソ相互援助条約の締結を理由にヴェルサイユ条約・ロカルノ条約(1925、ラインラントの非武装と相互不侵略を約束した条約)を破棄してラインラントに進駐した。

 この時のドイツ軍は大軍でなかったので、後にヒトラーは「ラインラント進駐後の48時間は、私の生涯でもっとも神経を痛めた時だ。もし当時フランスが兵を進めておれば、われわれはしっぽをまいて退却せざるを得なかったであろう。われわれが利用できる軍事力はひかえめな抵抗にも全く不十分だったからだ。」と語っている。

 フランスはドイツのラインラント進駐に一時態度を硬化させたが、イギリスの同調が得られなかったために反撃をためらい、ドイツによるラインラント進駐を阻止することが出来なかった。

 ラインラント進駐によってロカルノ体制とヴェルサイユ体制は崩壊し、国際情勢はますます緊迫の度を強めていった。




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