4 ファシズムの台頭

4 ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その1)

 1920年代後半にやっと安定を取り戻したドイツは世界恐慌によって深刻な打撃を受け、国民生活は混乱し、議会政治は危機に陥った。こうした状況の中で急速に勢力を伸ばしたナチスは、1933年1月、ついに政権を獲得し、ヒトラー内閣が成立した。

 ヒトラー(1889〜1945)はオーストリアのブラウナウで下級税関官吏の子として生まれた。実科学校を中退した彼は画家を志してウィーンに出て美術学校を受験したが失敗した(1907)。翌年も受験に失敗したヒトラーはウィーンで自分で書いた絵を売ったり、日雇い労働者をしながら食べるものにも事欠くような困窮の生活を送った。その後、一時ミュンヘンにも移り住んだが(1913)、1914年8月に第一次世界大戦が起こると、ただちにバイエルン連隊に志願兵として入隊した。

 フランドル戦線に派遣されたヒトラーは勇敢に戦い、2度負傷し、陸軍病院で敗戦を迎え、まもなく退院してバイエルンの連隊に戻った。そして軍の政治工作員となったヒトラーはドイツ労働者党という小さな右翼政治団体の調査を命じられて入党した(1919.9)。そして巧みな煽動演説と精力的な活動によって頭角をあらわし、まもなく党の指導者となった(1921.7)。

 この間、1920年2月には「25カ条の綱領」が発表され、党名もドイツ労働者党から国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(通称のナチスは政敵からの呼称)に改称された。

 「25カ条の綱領」の主な内容は以下の通りである。
 1 われわれは、諸国民の民族自決権の原則にのっとり、大ドイツ国を樹立するため全ドイツ人が統合することを要求する。
 2 われわれは、他国民に対するドイツ民族の平等権を要求し、ヴェルサイユ条約およびサン=ジェルマン平和条約の破棄を要求する。
 3 われわれは、わが国民を養い、過剰人口を移住せしめるために、土地および領土(植民地)を要求する。
 4 ドイツ民族同胞たるもののみが、ドイツ国公民たりうる。ドイツ人の血統を持つもののみが宗派のいかんを問わず、ドイツ民族同胞たりうる。したがってすべてのユダヤ人はドイツ民族同胞たり得ない。
 8 非ドイツ人のこれ以上の流入は阻止されねばならない。われわれは、1914年8月2日以降ドイツ国に流入したすべての非ドイツ人を、即時強制的に国外へ退去せしめることを要求する。
 22 われわれは、傭兵軍隊の廃止と、国民軍の建設を要求する。
 25 以上すべての要求を貫徹するため、われわれは、ドイツ国に強力な中央権力を創設することを要求する。・・・。(山川出版社、世界史史料・名言集より)

 このように大ドイツの建設・ヴェルサイユ条約の破棄・領土の要求・ユダヤ人の迫害など後にヒトラーが実現に努力した国粋主義的な政策が掲げられている。また11〜17には不労所得の廃止・戦時利得の没収・トラストの国有化・養老制度の拡張・土地改革などの社会主義的な政策も掲げられているが、これらは党勢拡大のための具にすぎず、その後ヒトラーによって無視された。

 ナチスが一躍注目を集めるようになったのは、1923年11月のミュンヘン一揆によってであった。
 1923年、フランス・ベルギーによるルール占領によって1兆倍に及ぶ破局的なインフレーションが起こり、政治不安が激化すると、同年11月、ナチスはヴァイマル政府の打倒と政権獲得を目ざしてクーデターを企てた(ミュンヘン一揆)。

 しかし、このミュンヘン一揆は国防軍によって鎮圧され、ヒトラーは逮捕され、翌年の裁判で有罪となり、9ヶ月間投獄された。この間、獄中で口述筆記されたのが有名な『わが闘争』(1925年に上巻、27年に下巻が出版された)で、ナチスのバイブルとなった。

 出獄後、ヒトラーは戦術を転換し、選挙による合法的な政権獲得を目ざした。しかし、当時のドイツは政治・経済・社会が安定期に向かっていたので、ナチスの勢力はほとんど伸びず、1928年5月の選挙では総投票数の2.6%・12議席を獲得したにすぎなかった。

 1929年に始まった世界恐慌がドイツに及ぶと、アメリカ資本に依存していたドイツ経済はたちまち破綻の危機に瀕した。企業の倒産が相次ぎ、工業生産は半減し(1929年を100とする工業生産高の指数は1932年には53.3となった)、失業者数は600万人を超えた。

 こうした状況の中で、ナチスの唱える現状打破、特にヴェルサイユ体制破棄の主張はドイツ人の心をとらえた。ナチスは巧みな宣伝によって従来の政党に失望した中産階級の支持を得、1930年9月の選挙では総投票数の18.3%を獲得し、議席数を12から一挙に107議席に伸ばし、社会民主党(143議席)に次ぐ第2党に躍進した。その一方でこの選挙では労働者に支持された共産党も54(1928)から77へと議席数を増加させた。

 共産党の進出を恐れた資本家(特に金融資本家と重工業資本家)とユンカー(大地主)はナチス支持に傾き、ナチスに財政援助を行った。さらに軍部もナチスを支持したので、1932年7月の選挙ではナチスは総投票数の37.4%・230議席を獲得し、ついに第1党となった。ヒトラーは入閣を求められたが組閣を求めてこれを拒絶した(1932.8)。

 1932年11月の選挙でもナチスは第1党であったが196と議席を減らし、一方共産党は100議席(1932年7月選挙では89議席)と議席をさらに増やした。

 共産党の進出に脅威を感じた資本家やユンカーはますますナチス支持を強め、内閣を総辞職に追い込んだのでヒンデンブルク大統領はヒトラーに組閣を許し、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が成立した。

 しかし、この時のヒトラー内閣は連立内閣で過半数に達してなかったので、ヒトラーはただちに議会を解散し、1933年3月の選挙では総投票数の43.9%・288議席という圧倒的多数を獲得した。

 この選挙では、ナチスは豊富な資金を用いて大々的な宣伝を行う一方で、暴力で反対党の選挙運動を妨害するなど未曾有のテロと脅迫を行った。

 特に1932年2月27日夜、国会議事堂放火事件が起こると、放火犯人として前オランダ共産党員のルッベらを逮捕し、これを共産党の陰謀として共産党を弾圧した。この事件については不明な点も多いが、ゲーリングらナチス首脳が計画した放火説が有力である。

 ナチスは国会議事堂放火事件の翌日、緊急令を発し、憲法が保障する言論・出版の自由などの基本権を停止し、また共産党を非合法化して数千人の共産党員を逮捕した。

 こうして3月5日の選挙では288議席を獲得した。しかし、与党の国家人民党の52議席を加えても3分の2(憲法改正に必要な数)に達しなかったので、共産党の81名の当選を無効とし、1933年3月24日には全権委任法(授権法)を成立させた。

 全権委任法は、以後4年間国会や大統領の承認なしに政府の立法権を認めるという内容で、これによってヒトラーの独裁体制が確立された。

 独裁権を握ったヒトラーは、労働組合を禁止し(1933.5)、同年7月までにはナチス以外の全政党を解散させ、ナチスの一党独裁体制を確立した。

 ヒトラーは、1934年8月にヒンデンブルク大統領が亡くなると、総統(フューラー)に就任し、大統領・首相・党首の全権を握り、名実ともに独裁者となった。




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