4 ファシズムの台頭

3 ファシスト=イタリアの成立とその政策

 第一次世界大戦後、後進資本主義国を中心にファシズムと呼ばれる政治形態が出現した。ファシズムという言葉は初めはイタリアのファシスト党の政治体制を指していたが、その後類似した政治体制に対しても広く使われるようになった。

 ファシズムとは、第一次世界大戦後の資本主義体制が危機に陥ったときに出現した議会制民主主義を否定する独裁的な政治形態である。

 ファシズム体制のもとでは、国家または民族の発展を最高の目的とし、個人はこれに従属し、奉仕すべきものと考える全体主義と呼ばれる政治思想(政治形態)によって個人の基本的人権や自由は否定され、国家や社会全体の利益が優先された。

 ファシズムの典型はナチス=ドイツであるが、ファシズムが最初に成立したのはイタリアにおいてであった。

 イタリアは第一次世界大戦の戦勝国であったが、パリ講和会議では「回復されざるイタリア」の獲得が認められただけでフィウメ市の併合などは拒否され、ヴェルサイユ体制に不満を持っていた。

 そのため、1919年9月には詩人・小説家で愛国者であったダヌンツィオ(1863〜1938)が復員軍人などの義勇兵を率いてフィウメを占領するという出来事が起こった(1920.12撤退)。

 もともと資源が乏しく、経済基盤が弱かったイタリアは戦費のほとんどを外債でまかなったため、戦後莫大な債務を負って財政危機に陥った。また産業も不振に陥り、失業者が増大し、食料その他の生活必需品が不足して激しいインフレーションにみまわれた。

 そのため1919年から20年にかけて都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主の土地を占拠して地代の支払いを拒否するなど社会不安が増大し、1919年11月に行われた総選挙では社会党が第1党となった。

 1920年になると労働者のストライキが激化し、9月には北イタリアの労働者が社会党左派(1921年に共産党を結成)の指導のもとで工場を占拠し、農民も各地で地主の土地を占拠したので、革命前夜を思わせる状況になった。

 しかし、労働者は賃上げその他の条件で政府の妥協案を受け入れて工場占拠を解いたので以後労働運動は衰退に向かった。その一方で、この出来事をきっかけとして勢力を拡大したのがムッソリーニの率いるファシスト党であった。

 ムッソリーニ(1883〜1945)は北イタリアで鍛冶屋の子として生まれた。師範学校を卒業後、スイス各地を転々とする間に社会主義者と接触し、帰国後イタリア社会党に入党した(1908頃)。彼は巧みな弁舌で知られ、社会党の機関誌「アヴァンティ(前進)」の編集長となったが(1912)、第一次世界大戦が勃発すると参戦を主張して党から除名され(1914)、以後反社会主義運動にはしった。

 ムッソリーニは、1919年3月、ミラノで「戦闘者ファッショ」を結成し、同年11月の総選挙に立候補したが4千数百票を獲得しただけで落選した。なおファッショとは古代ローマの官吏がたずさえた一束の棒で団結・結束を意味し、ファシズムの語源となった。

 しかし、戦闘者ファッショは、1920年の北イタリアのストライキで労働者による工場占拠が行われると、社会党員や労働者を暴力で攻撃し、労働運動を暴力で鎮圧した。

 戦闘者ファッショは共産主義の進出を恐れる資本家・地主・軍部などの支持を受けて勢力を拡大し、1921年5月の総選挙では31名を当選させ、同年11月に戦闘者ファッショはファシスト党(国家ファシスト党、ファシスタ党)に改組された。

 この頃には党員数も約30万人に達していたファシスト党は戦闘団(黒シャツ隊と呼ばれた)の軍隊化を進め、暴力的な性格をますます強めていった。

 1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党大会でムッソリーニは政権奪取を宣言し、28日には黒シャツ隊がローマに向かって進撃を開始した(ローマ進軍)。

 ファクタ首相は国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世(位1900〜46)に戒厳令の発布を求めたが、国王はこれを拒否し、逆にムッソリーニに組閣を命じた。

 黒シャツ隊はローマを占領し、ムッソリーニもミラノから寝台車でローマに到着し、同月末にムッソリーニ政権(ファシスト政権)が成立した。

 政権を握ったムッソリーニは、ファシスト大評議会を設立し(1923)、翌1924年の総選挙でファシスト党は暴力を使った選挙運動によって総投票数の65%・375議席を獲得して議会の絶対多数を握り、1926年11月にはファシスト党以外の全政党を解散させ、ファシスト党一党独裁制を確立した。

 さらに1928年12月にはファシスト党の最高機関であったファシスト大評議会が正式に国家の最高機関となり、ファシズム体制が完成した。

 この間、ムッソリーニはローマ帝国の再現を唱えて対外拡張政策を進め、1924年1月にはユーゴとの直接交渉によってフィウメを併合した。フィウメはダヌンツィオが義勇兵を率いて一時占領したが、ラパロ条約(1920.11)によって独立市とされたがムッソリーニによって再度併合された。次いで1926年にはアルバニアを事実上の保護国とした。

 さらに1929年2月には、カトリック教徒がほとんどを占める国民の支持を得るためにローマ教皇庁とラテラン条約(ラテラノ条約、ラテラン協定)を結んだ。ローマ教皇庁とイタリア王国とは、1870年にイタリア王国がローマ教皇庁を併合して以来、ローマ教皇は「ヴァチカンの囚人」と称し、両者は国交断絶状態にあった。

 ムッソリーニはラテラン条約を結んでローマ教皇と和解し、ヴァチカン市国の独立とカトリックがイタリア唯一の宗教であることを認め、ローマ教皇はムッソリーニ政権を承認した。

 ヴァチカン市国はローマ市の一角にある教皇庁の所在地域で、面積0.44平方km・人口1277人(1994)の世界最小の独立国家である。

 ムッソリーニがイタリア国内でファシズム体制を完成させてまもなく、世界恐慌の影響がイタリアにも及んだ。ムッソリーニは統制経済を強め、失業者の救済を兼ねた大土木事業を起こして工業の発展を図るとともに食糧の増産にも努めた。

 しかし、その一方で資源に乏しいイタリア国内の経済危機を打開するため、また経済危機から国民の目をそらせるために1935年10月にはエチオピア侵入を開始した。

 イタリア軍が侵入を開始してから4日後に国際連盟理事会はイタリアを侵略国とみなし、8日後に国際連盟総会はイタリアへの経済制裁を決議した。しかし、この経済制裁は肝心の石油が禁輸リストから外されるなど不徹底で効果はなかった。

 エチオピア軍は勇敢に抵抗したが、近代兵器で武装したイタリア軍は破竹の進撃を続け、イタリアは1936年5月にエチオピアを併合した。

 このイタリアによるエチオピア侵入は国際連盟の権威を失墜させるとともに、ファシスト=イタリアとナチス=ドイツを接近させ、1936年10月にベルリン=ローマ枢軸が成立した。




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