1 世界経済恐慌とアメリカのニューディール
1929年10月24日(暗黒の木曜日)に起こったニューヨークの株式取引所(ウォール街)での株価の大暴落をきっかけとしてアメリカで大恐慌が始まった。
この恐慌は、第一次世界大戦後アメリカの資本に依存していたヨーロッパ諸国に大きな影響を及ぼし、まもなく恐慌はソ連を除く全世界に広まった。この世界史上例を見ないほど大規模で深刻な恐慌は世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と呼ばれている。
世界恐慌がアメリカから起こった原因としては次のようなことがあげられる。
自動車・化学・電気などの新しい産業の発展・産業の合理化による工業生産力の増大・それにともなう過剰な設備投資などによって工業製品が生産過剰に陥っていたこと。
高関税政策の影響で国際貿易が伸び悩んでいたこと。
農業部門でも、戦争中からの増産によって農産物の供給が急増していたところへ、戦後ヨーロッパの復興によってヨーロッパの需要が減少し、農産物価格が急落して農業不況が深刻化していたこと。
農業不況によって農民の購買力が低下し、また生産性の伸びに比べて労働者の賃金が低く抑えられたので国民の購買力が低下したこと。
要するに、生産過剰と国民の購買力の低下によって需要と供給のバランスが大きく崩れたことが原因であった。
そして、戦後世界の資本がアメリカに集中し、それが土地や株式の投機に使われ、過剰な投機ブームが起こっていたことが株価大暴落の直接の原因となった。
1929年3月に就任した第31代大統領フーヴァー(任1929〜33)は「私はわが国の将来に何らの不安を抱いていない。未来は希望に輝いている」と演説したが、この頃すでに石炭・造船・鉄道・住宅建設などの業種は不況に苦しんでいたし、農業の不況は深刻化し、農産物価格の下落は続いていた。
にもかかわらず、株式市場では1929年9月まで株価は上昇を続けた。1929年9月の平均株価は、8年前に比べて4.5倍、3年前に比べても2倍になっていた。
その後、乱高下をくり返していた株価が、1929年10月24日(暗黒の木曜日)に突然大暴落した。28・29日にも大暴落は続き、株価は1ヶ月で40%も暴落し、株価の下落は以後3年間続いた。
株式恐慌は国民経済のすべての分野に大打撃を与え、生産は減退し、企業や銀行の倒産があいつぎ、失業者は増大した。1932年までの3年間に約5000の銀行が倒産し、国民所得は51%・工業生産は46%・企業売上げは50%・全農産物の価格は45%・輸出は36%それぞれ下落した。
恐慌が始まるとアメリカはヨーロッパから資本を引き上げたので、戦後アメリカ経済に頼っていたヨーロッパ諸国は大打撃を受けた。特に莫大な賠償金の支払いに苦しみながらもアメリカ資本によって立ち直りかけていたドイツ経済は再び破綻し、その結果賠償金を受け取れなくなったイギリス・フランスなども恐慌に見まわれ、恐慌はソ連を除く全世界に広がって世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)となった。
アメリカ大統領のフーヴァーは、1931年6月にドイツの賠償金や連合国の戦債の支払いを1年間停止するというフーヴァー=モラトリアムを提唱したが実効は上がらなかった。
フーヴァーは個人主義・民間のイニシアティブに固執し、公共事業・福祉事業・失業保険などを連邦政府の国債発行によってまかなうことを拒否したために、彼の恐慌対策は効果を上げることが出来ず、恐慌を乗り切ることが出来なかった。
そのため「フーヴァーでなければ誰でもよい」と言われるようになり、1932年の大統領選挙では民主党のフランクリン=ローズヴェルト(ルーズヴェルト)に敗れた。
フランクリン=ローズヴェルト(1882〜1945、任1933〜45)はニューヨークに生まれ、ハーヴァード大学で学んだ後に弁護士となった。1910年に政界に入り、ニューヨーク州上院議員・海軍次官・民主党大統領候補(1920年、落選)を経て、1929年にニューヨーク州知事となり、革新的な政策で知られた。そして世界恐慌さなかの大統領選挙で現職のフーヴァーを破って第32代大統領に就任した(1933.3)。
フランクリン=ローズヴェルトは就任直後に特別議会を召集し、ニューディール政策と呼ばれる恐慌克服策の根幹となる法律を次々に制定していった。
ニューディールとは「新規まきかえし」の意味で、ニューディール政策の基本政策はRelief(救済)・Recovery(回復)・Reform(改革)の頭文字をとって3R政策と呼ばれる。
ニューディール政策は今までの自由放任に代えて、国家が経済に積極的に介入し、統制を行って景気と国民生活の立て直しを図ろうとする政策で、完全雇用実現のためには政府による有効需要の創出が重要であると主張した修正資本主義の代表的な理論家であるイギリスの経済学者ケインズ(1883〜1946)の理論を初めて実施した政策であった。
ニューディール政策の根幹となった法律は、農業調整法(AAA、1935.5)・全国産業復興法(NIRA、1933.6)・テネシー川流域開発公社(TVA)の設立(1933.5)などである。
農業調整法(Agricultural Adjustment Actの頭文字をとってAAAと呼ばれる)は小麦・とうもろこし・綿花などの主要作物の作付面積や販売用生産を削減する一方で過剰農産物を政府が買い上げるなどして農産物価格を安定させ、農民の救済とその購買力の回復を目ざした法律である。
また全国産業復興法(National Industrial Recovery Actの頭文字をとってNIRA、通称ニラと呼ばれる)は企業に独占禁止法の適用を停止して公正競争の規約を結ばせ、生産を規制するとともに企業の適正な利潤を確保させ、他方で労働者の団結権・団体交渉権を認めて適正な賃金の確保を図らせ、生産力と購買力を回復させることを目的とした法律である。しかし、NIRAは1935年に最高裁判所によって違憲判決を受けたので、その中の労働者の権利に関する部分をワグナー法として制定した(1935.7)。
そしてテネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authoityの頭文字をとってTVAと呼ばれる)は電力開発・治水・土地保全・植林・農工業の振興などを目的とする地域総合開発計画で、政府が巨大なダム建設などの公共事業を行い、この事業に多くの失業者を吸収し、賃金を支払って購買力を増やすことを目的とした。
1935年に制定されたワグナー法によって労働者の団結権と団体交渉権が認められたことから労働組合運動も発展し、同年産業別組織会議(CIO)が結成された。CIOは熟練労働者を中心とするAFL(アメリカ労働総同盟)に対抗して、未熟練労働者を中心に組織され、1938年にAFLから分離・独立した。
1935年には社会保険法も成立し、失業保険制度や老齢年金制度などが定められた。
世界恐慌が長引く中で恐慌克服策の一環として外交政策を改め、従来の孤立主義・膨張主義から善隣友好政策に転換した。
1933年にはソ連を承認した。列強の中でアメリカだけは長い間ソ連を承認しなかったが、ファシズム諸国の台頭に対抗するため、そしてソ連市場への輸出の拡大を図るためについに承認にふみきった。
またラテン=アメリカ諸国に対しても、従来のカリブ海政策を改めて善隣外交(善隣友好政策)に転じ、ラテン=アメリカ諸国との友好に努めたが、その背景にもラテン=アメリカ諸国への輸出を拡大したいという意図があった。
1933年に開かれたパン=アメリカ会議で、アメリカは善隣友好の方針を表明し、キューバに対してはプラット条項を廃止して完全独立を承認した(1934.5)。
そしてフィリピンに対しても、1934年に独立法案を成立させ、翌1935年に自治を認め、10年後の完全独立を約束した。
こうしたニューディール政策の実施や外交政策の転換などによって、アメリカの経済・社会は1935年頃にはようやく安定をとり戻した。
フランクリン=ローズヴェルトは1936年の大統領選挙では労働者らの支持を得て圧倒的な勝利をおさめて再選された(1940年3選、1944年4選)。
現在のアメリカでは大統領の3選は憲法で禁止されているので(1951、憲法修正第22)、フランクリン=ローズヴェルトはアメリカ史上唯一人の4選された大統領となった。