7 トルコ革命とイスラム諸国(その2)
第一次世界大戦前にイギリスとロシアによって分割されていたカジャール朝(1796〜1925)イランは、第一次世界大戦が始まると中立を宣言したが、イギリス・ロシア軍によって占領された。
ロシア軍はロシア革命によって引き上げたが、イギリスは戦後イランに対して政府閣僚や憲兵隊にイギリス人顧問を派遣することなどを定めた協定を押しつけ(1919)、イランを半植民地化した。
これに反対するイラン国民の激しい民族運動が起こり、政治的な混乱が続く中で、1921年2月にレザー=ハーンがクーデターを起こして実権を握った。
レザー=ハーン(レザー=シャー、レザー=シャー=パフレヴィー、1878〜1944、位1925〜41)はカスピ海南岸の出身で軍人となり、若くしてペルシア=コサック師団の将校となった。イランが亡国の危機に陥ると、1921年2月に2500の兵を率いてテヘランを占領し、クーデターに成功した。
レザー=ハーンはクーデター直後にペルシア軍の総司令官となって実権を握り、1923年には首相に就任した。その後地方の諸政権をを制圧したレザー=ハーンは議会でカジャール朝の廃止を決議し、1925年12月に自ら王位についてパフレヴィー朝(1925〜79)を創始した。
レザー=ハーンは即位後、イギリスとの不平等条約の破棄を宣言して治外法権と関税自主権を回復し(1928)、またトルコのケマル=アタテュルクを手本として婦人解放・教育改革など各種の改革を断行した。そして1935年には正式国名をペルシアからイランに改めるなどイラン人の民族的自立を鼓舞した。
イギリスの保護国であったアフガニスタンは、1919年に独立を宣言し、侵入したイギリス軍と戦い(第3次アフガン戦争、1919)、ラワルピンディー条約(1919)によって正式に独立が承認された。
アラビアではイブン=サウードがアラブの統一を目ざした。
ネジド地方(アラビア半島中部)のリャドの豪族サウード家は、18世紀中頃にワッハーブ派と結んでワッハーブ王国(1744頃〜1818、1823〜89)を建てたが、ワッハーブ王国は1889年にネジド北部のラシード家にリャドを奪われて滅亡した。
この時、イブン=サウード(1880〜1953、位1932〜53)は父とともにアラビア半島西岸の各地を放浪した後にクウェートに亡命した。
ワッハーブ王国の再興を目ざすイブン=サウードは、1901年に少数の部下とともにリャドを奪回してワッハーブ王国を復興し、第一次世界大戦中はイギリスに協力してアラビア半島中部の支配権を確立した。
その頃、メッカでムハンマドの子孫としてハーシム家に生まれたフセイン(フサイン、1852頃〜1931)は、第一次世界大戦が始まるとカイロ駐在のイギリス高等弁務官マクマホンと接触し、アラブ人に独立国家を認めるフセイン=マクマホン協定(1915)を結んで対トルコ戦を開始し、3人の息子とともにアラブの反乱を起こした(1915)。
映画で有名な「アラビアのロレンス」(トマス=ロレンス、1888〜1935)は中東研究家であったが、第一次世界大戦が勃発するとイギリス陸軍情報将校としてカイロに派遣され、フセインの息子ファイサルと提携し、アラブ人ゲリラ部隊を編成してドイツ側に参戦したトルコ軍の後方撹乱に従事した。彼はアラブ人に扮してアラブ人部隊を率い、ゲリラ作戦によってアカバ・ダマスカスを占領した。 しかし、戦後イギリス政府がフセイン=マクマホン協定を守らなかったことに失望して辞職した。
フセインは「アラブの王」と称したが、イギリスの反対でアラビア半島西岸のヒジャーズの王位につくことのみが認められた(ヒジャーズ王国、1916〜24)。しかし、1924年にワッハーブ派の指導者イブン=サウードと戦って敗れ、キプロスに亡命した。
フセインを破ったイブン=サウードはヒジャーズ王国を併合し、ヒジャーズ=ネジド王国の成立を宣言し、ヒジャーズ=ネジド王と称した(1926)。
その後、イエメンを除くアラビア半島を統一したイブン=サウードは、1932年に国名をサウジアラビア王国と改称し、ワッハーブ派イスラム教を国教とした。
第一次世界大戦後、イギリスの委任統治領となったイラクでは、ハーシム家のファイサル(ファイサル1世、1885?〜1933、位1921〜33、ヒジャーズ国王フセインの第3子)がイギリスに招かれて王位についた。イギリスは、イギリス=イラク条約(1930)で委任統治をやめ、1932年にイラクの正式独立を認め、イラクはアラブ諸国のなかでは最初に国際連盟に加入した(1932)。
イギリスの委任統治下に置かれたトランスヨルダンでは、1921年にハーシム家のアブド=アッラーフ=ブン=フセイン(1882〜1951、ヒジャーズ国王フセインの第2子)を太守とする土侯国が成立し、1928年にはトランスヨルダン王国となった。トランスヨルダン王国は1946年に正式に独立した。
シリアでは、後にイラク国王となったファイサルがアラブ=シリア国民会議によって王位についたが(1920)、フランスによって追放され、シリアは1920年にフランスの委任統治領となった。またシリアから切り離されたレバノンも1920年にフランスの委任統治領となった。
その後、シリアは1936年に自治を認められ、1944年にシリア共和国として独立し、1946年には完全な独立国となった。またレバノンは1941年に独立を宣言し、1944年に共和国として独立した。
パレスチナ地方については、第一次世界大戦中に、イギリスはフセイン=マクマホン協定(1915)でアラブ人に対してトルコからの独立を約束し、一方でユダヤ人に対してもバルフォア宣言(1917)でシオニズム(ユダヤ人の民族国家をパレスチナに建てようとする運動)を援助することを約束し、アラブ人・ユダヤ人の両方から協力を得た。
しかし、この相矛盾する約束はともに守られず、パレスチナは戦後イギリスの委任統治領となったので、アラブ・ユダヤ両民族はそれぞれの主権を主張して対立した。
第一次世界大戦後、特にドイツでナチス政権が成立した1933年以後、ユダヤ人のパレスチナへの移住が急増し、パレスチナにおけるユダヤ人の総人口は1919年の6万5000人から1939年の45万人に激増した。このためアラブ人の反発が強まり、アラブ・ユダヤ両民族の対立が激化し、現在まで続くパレスチナ問題が発生した。