3 アジアの情勢

7 トルコ革命とイスラム諸国(その1)

 オスマン=トルコ帝国は第一次世界大戦に同盟国側に立って参戦して敗れ、スルタン政府はセーヴル条約に調印した(1920.8)。

 セーヴル条約は、ヨーロッパ側の領土の大部分とメソポタミア・パレスチナ(イギリスの委任統治領)・シリア(フランスの委任統治領)などを連合国に割譲し、治外法権・連合国による財政管理・軍備の制限などを認める屈辱的な内容だったので、ケマル=パシャの臨時政府はこれを否認した。

 ケマル=パシャ(本名はムスタファ=ケマル、ケマル=アタテュルク、1881〜1938)はサロニカに生まれ、陸軍大学を卒業後軍隊に入り、第一次世界大戦では軍司令官として軍功をあげた。敗戦後、ギリシア軍によってイズミル(スミルナ)が占領されると(ギリシア=トルコ戦争、1919〜22)、ケマル=パシャは東部アナトリアでアナトリア=ルーメリア権利擁護団(1923年にトルコ人民党(トルコ国民党)に改組)と国民軍を編成してこれに対抗した(1919)。

 1920年4月、ケマル=パシャはアンカラにトルコ大国民会議を召集し、臨時政府樹立を宣言した。
 同年8月、スルタン政府がセーヴル条約に調印すると、ケマル=パシャはこれを否認して独立戦争を起こし、ギリシア軍を撃退してイズミル(スミルナ)を奪回した(ギリシア=トルコ戦争、1919〜22)。

 1922年11月、ケマル=パシャはスルタン制とカリフ制を分離し、スルタン制を廃止することを宣言した。メフメト6世(位1918〜22、オスマン朝第37代皇帝)はマルタ島に亡命し、600年以上続いたオスマン=トルコ帝国(1299〜1922)はついに滅亡した。

 1922年11月にスイスのローザンヌで始まったトルコと連合国との講和会議ではセーヴル条約が破棄され、翌1923年7月にトルコは連合国との間に新たにローザンヌ条約を結んだ。これによってトルコはイズミル・イスタンブル周辺・東トラキアなどを回復し、治外法権や軍備制限を撤廃させて完全に独立を回復した。

 1923年10月、トルコ共和国の成立が宣言され、初代大統領にはケマル=パシャが就任し、首都はイスタンブルからアンカラに移された。

 トルコ革命(1922〜23、オスマン=トルコ帝国を打倒し、トルコ共和国を樹立した革命。広義にはケマル=パシャの近代化改革も含める)を成し遂げたケマル=パシャは、以後トルコの近代化に取り組み、近代化政策を次々に推し進めた。

 1923年には、アナトリア=ルーメリア権利擁護団を政党に改組してトルコ人民党(トルコ国民党)とし、翌1924年にはトルコ共和国憲法を制定した。そして政治と宗教を完全に分離し、カリフ制を廃止した。これによってスルタンとカリフの地位を失ったオスマン家は国外に追放された。

 ケマル=パシャが行った近代化政策の中で特に有名な政策は婦人解放(婦人の地位向上)と文字革命である。

 婦人解放については、イスラム暦の廃止(太陽暦の採用)や男子のトルコ帽廃止と並行して女性のチャドルが廃止され(1925)、一夫多妻制も廃止された(1928)。そして1934年には婦人参政権も与えられた。

 また文字革命については、1928年にアラビア文字を廃止し、トルコ語の表記をローマ字に改めた。この文字革命と教育革命によってトルコ人の識字率が高まった。

 1934年、トルコの近代化に努めたケマル=パシャに対して議会はアタテュルク(トルコの父の意味)の尊称を贈ったので、ケマル=パシャは以後ケマル=アタテュルクと呼ばれた。
 ケマル=アタテュルクは1938年に亡くなったが、その頃にはトルコは新しいトルコに生まれ変わっていた。

 第一次世界大戦とパリ講和会議、特に民族自決の原則はアラブ人の間にも大きな影響を及ぼした。

 1914年以来イギリスの保護国となっていたエジプトでは、戦後ワフド党を中心に激しい民族運動が展開された。

 ワフド(代表の意味)党は、サアド=ザグルール(ザグルール=パシャ、1850頃〜1927)らを指導者として1918年に結成された民族主義政党で、地主や民族資本家を地盤とし、保護権の廃止・完全独立を要求して反英独立闘争を展開した。

 そのためイギリスは、1922年に保護権を廃止して形式的な独立を認め、スルタンのファード(ファード1世、位1922〜36)を国王とするエジプト王国(1922〜52)が成立した。

 しかし、イギリスはエジプトの防衛権・スエズ運河地帯駐兵権・スーダン領有権などを留保したので、その後も完全独立を目ざす反英運動が続いた。

 ワフド党内閣は留保条件をめぐってイギリスと交渉を続け、1936年8月にはイギリス=エジプト同盟条約を結んだ。イギリス=エジプト同盟条約によってエジプトの完全な主権が認められ、イギリス軍と官吏は退去した。しかし、スエズ運河地帯には依然としてイギリス軍が駐兵した。




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