1 帝国主義の成立と列強の国情

4 ドイツ

 ドイツの統一後、ビスマルク(1815〜98)はドイツ帝国宰相(任1871〜90)として約20年間にわたって独裁的な権力をふるった。

 この間、フランスの復讐にそなえてオーストリア・ロシアとの間に三帝同盟を結び(1873)、さらにオーストリア・イタリアとの間で三国同盟を結んで(1882)フランスの孤立化をはかった。その後バルカンでオーストリアとロシアとの対立が激化して三帝同盟が事実上消滅すると、ロシアとの間に再保障条約を結んだ(1887)。

 また国内では社会主義勢力の進出を抑えるために社会主義者鎮圧法を制定して(1878)、社会主義的結社を禁止し、集会・出版の自由などを制限した。

 1888年、ヴィルヘルム1世が亡くなり、フリードリヒ3世(位1888)が即位したが在位わずか99日で没し、孫のヴィルヘルム2世(位1888〜1918)が29歳で即位した。

 若いヴィルヘルム2世は、社会主義者鎮圧法の扱いと再保障条約の更新をめぐって老宰相のビスマルクと対立した。

 ビスマルクが社会主義者鎮圧法の有効期間を延長し、ロシアとの再保障条約を更新・継続しようとしたのに対し、ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の延長を否決し、再保障条約の更新を拒否した。

 1890年3月、ビスマルクはついに辞職し、ヴィルヘルム2世の親政が始まった。

 この頃、ドイツの資本主義は重化学工業を中心にめざましく発展し、工業生産額では1900年代にイギリスに迫り、1910年までにはイギリスを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第二の工業国となっていく。

 こうした経済力を背景に、ヴィルヘルム2世は「世界政策(新航路政策)」と呼ばれる積極的な帝国主義政策に乗り出していった。

 ヴィルヘルム2世は、親政を開始するにあたって「国家という船の当直将校の役を朕が担当することになった。航路は従来通り、全速で航行せよ」とドイツ諸王侯宛に打電したので、彼の世界政策は新航路政策と呼ばれた。

 しかし、航路は従来通りでなく、ビスマルクの平和・現状維持政策を変更して積極的な世界政策を推進し、アフリカ・太平洋・近東へ進出した。

 またヴィルヘルム2世は世界政策を進めるために、「ドイツの将来は海上にあり」をスローガンにイギリスに対抗して海軍の大拡張に乗り出し、海軍大臣ティルピッツ(任1897〜1916)のもとで大建艦計画を進めた(1897年以後)。

 特に1917年までに戦艦38隻・巡洋艦42隻の大艦隊を建造するという第2次艦隊法(1900)は大海軍国のイギリスに大きなショックを与え、以後イギリスとドイツの間に激しい建艦競争を引き起こした。

 この間、国内では社会主義を目ざす労働運動が盛んとなった。
 ドイツの社会主義運動は1860年代から始まり、ラサール(1825〜64)を指導者とする全ドイツ労働者同盟(1863年に結成)やべーベル(1840〜1913)を指導者とする社会民主労働者党が結成された(1869)。

 両者は1875年に合同し、ドイツ社会主義労働者党が成立した。ドイツ社会主義労働者党は社会主義者鎮圧法によって弾圧されたが徐々に勢力を拡大し、1890年の社会主義者鎮圧法の廃止・ビスマルクの辞職後、ドイツ社会民主党と改称した(1890.10)。

 ドイツ社会民主党はその後順調に発展し、1912年の総選挙では110議席を獲得して第一党となり、その間第二インターナショナルでは指導的な地位を占めた。

 ドイツ社会民主党は、1991年にエルフルト綱領を採択してマルクス主義による革命を主張したが、党内では19世紀末からベルンシュタインの修正主義が現われた。

 ベルンシュタイン(1850〜1932)は、社会民主労働者党に入党し、社会主義者鎮圧法に反対してスイス・ロンドンに亡命した。彼はロンドンでフェビアン社会主義の影響を受けてマルクス主義の革命理論に懐疑的となり、革命を否定して議会主義による漸進的な社会主義の実現を説く修正主義を主張し(1896年頃から)、修正主義の理論的な指導者となった。




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