3 アジアの情勢

4 国共の合作と分離(その2)

 孫文の死後、国民党内で指導権を握ったのが蒋介石である。

 蒋介石(1887〜1975)は、浙江省の出身、保定軍官学校を卒業後、日本の陸軍士官学校に留学し(1908〜10)、辛亥革命で帰国した。一時上海で株の仲買人となった後に広東軍政府に参加し(1922)、孫文の信任を得てソ連に留学し、帰国後黄埔軍官学校の初代校長となった(1924)。国民党内で左右の対立が深まると中山艦事件(1926.3)を起こして共産党員を逮捕・追放して党・軍の両権を握った。

 1926年7月、国民革命軍総司令に就任した蒋介石は北方の軍閥を打倒し、中国を統一するために北伐(1926.7〜28.12)を開始した。

 国民革命軍は広州から二方面に分かれ、主力は湖南・湖北を目指し、他の一軍は福建・浙江を目指した。国民革命軍は民衆の支持を得て破竹の勢いで進撃し、わずか3ヶ月で武漢に達し、翌年3月には南京・上海を占領した。

 しかし、北伐が進展するにつれ、国民党内での左右の対立が深まり、国民党左派と共産党は1927年2月に武漢国民政府(武漢政府)を樹立した。武漢政府は、上海クーデター後に蒋介石が樹立した南京国民政府(南京政府)と対立したが、内部対立によって7月には分裂して共産党が政府から退き、9月には国民党左派が南京政府に合流した。

 1927年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデター(上海クーデター)を強行し、多数の共産党員と労働者の虐殺・逮捕を行った。15日までの4日間に共産党員・革命的労働者300人以上が虐殺され、500人以上が逮捕され、5000人以上が逃亡または行方不明になったと言われている。

 上海クーデターは、共産党の指導する労働者らによって上海が解放されたこと(1927.3)に驚いた帝国主義列強と浙江財閥(上海を中心に中国経済界を支配した銀行を中心とする財閥)の求めに応じて蒋介石が起こした事件であり、これによって上海・南京地区の共産党組織は壊滅し、第1次国共合作は事実上崩壊した。

 蒋介石は上海クーデター後、武漢政府に対抗して南京国民政府を樹立して(1927.4.18)その主席となり、翌1928年4月には北伐を再開した。

 北伐軍が山東省に入ると、日本は居留民の保護を口実に第2次山東出兵を行い、5月には北伐軍と日本軍との間に衝突が起こった(済南事件)。蒋介石は日本との正面衝突を避け、済南を迂回して北伐を続行し、北伐軍はまもなく北京に迫った。

 当時、北京政府の実権を握っていた奉天軍閥の張作霖(1875〜1928)は北伐軍に圧倒されて奉天に引き揚げようとしたが、1928年6月4日、張作霖の乗った列車は奉天駅に到着する直前に日本軍(関東軍)によって爆破され、張作霖は間もなく死亡した(張作霖爆殺事件、奉天事件)。

 1928年6月、北伐軍は北京に入城し、北伐が完了した。

 張作霖が爆殺された後、満州の実権を握った子の張学良(1901〜2001)は日本の圧迫に屈せず、反日の姿勢を強めて蒋介石の統一を支持したので、国民党による中国統一は一応達成された。

 蒋介石は北伐完了後、国民政府主席に就任し(1928.8)、党・軍・政の三権を掌握した。彼は浙江財閥と結び、アメリカやイギリスの支援をもとに政権の強化をはかった。

 一方、国共分裂(1927.7)後、共産党は華中・華南を中心に武装蜂起を試みたが失敗に終わった。

 こうした状況の中で毛沢東(1893〜1976)は農村に革命の根拠地をつくろうとし、井崗山(江西省・湖南省境南部の山岳地帯)に退き、ここを紅軍(共産党軍)の根拠地とした(1927.10)。

 その後、毛沢東らは周辺の農村に勢力を拡大してソヴィエト区をつくることと紅軍の強化に努めた。またソヴィエト区では土地改革(すべての土地を没収して農民に分配する)を進めたので、1930年までには15のソヴィエト区が生まれ、紅軍も約6万を数えるようになった。

 1931年11月7日(ロシア革命記念日)、江西省の瑞金で中華ソヴィエト第1次全国代表者大会が開かれ、憲法・土地法・労働法などを採択し、毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国(中華ソヴィエト共和国臨時政府)の樹立が宣言された。

 以後、毛沢東の共産党と蒋介石の国民党は中国の統一をめぐって激しく対立していく。




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