4 国共の合作と分離(その1)
五・四運動をきっかけとして反日・反帝国主義運動が広まる中、ソヴィエト政府は外務人民委員代理カラハン(1889〜1937)の名で、帝政ロシア時代の対中国不平等条約を破棄するというカラハン宣言を発した(1919.7)。カラハン宣言は中国国民から熱狂的な歓迎を受け、各界に大きな反響を呼び起こした。
1921年7月には、上海で陳独秀を委員長として中国共産党が結成され、1924年6月には中国はソ連との国交を回復した。
この間、アメリカの主導のもとで開かれたワシントン会議(1921〜22)で中国に関する九カ国条約が結ばれ、またこの会議と並行して行われた日中間の直接交渉によって山東懸案に関する条約が調印されて(1922.2)山東の旧ドイツの利権が中国に返還されたので、日本の中国進出は二十一カ条の要求以前の状態に後退した。
その頃、中国では軍閥戦争が激化し、安直戦争(1920)では、米英をバックにした曹こん(金へんに昆)・呉佩孚(ごはいふ)らの直隷派が奉天派の張作霖と結んで、日本の支援を受けた段祺瑞(だんきずい、1865〜1936)らの安徽派に勝ち、北京には奉直連合政権が成立した。
しかし、その後直隷派と奉天派の争いが激化して奉直戦争が起こった。第1次奉直戦争(1922)では呉佩孚の率いる直隷派が圧勝したが、第2次奉直戦争(1924)では奉天派・安徽派を中心とする反直隷派が直隷派を破り、北京には段祺瑞を執政とする安徽派・奉天派・国民軍の連立政権が成立した(1924.11)。
一方、広州を中心に北京の軍閥政府に対抗していた孫文はロシア革命の成功に感銘を受け、ソ連に接近した。孫文は1923年1月にソ連の外交官ヨッフェ(1883〜1927)と会談し、中国の統一と独立のために国共合作(国民党と共産党の協力体制)を進めるとの共同宣言を発表した。
そして1924年1月、広州で開かれた中国国民党第1回全国代表大会(一全大会)で「連ソ・容共・扶助工農」(ソ連と提携し、共産主義を受け容れ、労働者と農民を支援するの意味)の三大政策を発表した。
孫文はこの方針に従って国民党を改組し、共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認め、これによって第1次国共合作(1924.1〜27.7)が成立した。
さらに大会では国民革命軍の育成が決定され、黄埔軍官学校が設立され(1924.6)、校長にはソ連留学から帰ったばかりの蒋介石が任じられた。
反帝国主義・打倒軍閥・反封建主義の国民革命を目ざした孫文は、第2次奉直戦争後の時局収拾のために北京に赴いたが(1924.12)、1925年3月に「革命いまだならず」の遺言を残して病死した。
なおこの北京への途上で神戸に立ち寄った孫文は有名な「大アジア主義」と題する講演を行い、中国のみならず全アジアの被圧迫民族の解放に力を貸すことが日本の進むべき道であると訴えて大きな感銘を与えた。
孫文の死から2ヶ月後、上海で五・三〇事件と呼ばれる反帝国主義運動が起こった。その発端となったのは、5月15日に日本人が経営する上海の紡績工場で中国人労働者が射殺された事件であった。
1925年5月30日、約2000人の学生が上海の租界で労働者の射殺に抗議するデモを行った。それに対してイギリス警官隊は多くの学生を逮捕するとともに、抗議に集まった1万人以上の学生・労働者に発砲し、多数の死傷者が出た。これが五・三〇事件である。
この五・三〇事件に抗議して、6月1日から上海全市の労働者・学生・商人がゼネストに入ると、反帝国主義運動はたちまち全国の主要都市に広まり、各地で衝突が起こり、流血事件が起こった。
五・三〇運動は9月に入ると大部分の地方では収まったが、この運動では五・四運動の時の学生に代わって労働者階級が先頭に立った。このことは以後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼした。
反帝国主義運動が全国に広まる中で、国民党は1925年7月に広州で中華民国国民政府(国民政府、広東政府)の樹立を宣言し、国民革命軍も組織された。しかし、国民党内部ではこの頃すでに左右の対立が深まっていた。