3 アジアの情勢

2 文学革命と五・四運動、モンゴルの独立

 中国では、袁世凱の死(1916.6)後、北京では軍閥が政権をめぐって抗争を続け、軍閥政権(1916〜28)が続いた。これに対して南の広州には孫文を中心とする広東軍政府が設立された(1917)。

 第一次世界大戦によってヨーロッパ列強が中国から一時手を引いたことから、中国では民族資本が成長し、紡績・製粉・マッチなどの軽工業の分野で中国人の経営する工場が次々に建てられ、多くの労働者が生み出された。また中国人の出資・経営する銀行も現われた。こうした民族資本の成長は中国を列強の半植民地的状態から解放しようとする気運を高めた。

 その頃、文学・思想界では、文学革命と呼ばれる新文化建設のための啓蒙運動が始まっていた。

 その中心となった陳独秀(1879〜1942)は、1915年9月に上海で『青年雑誌』(翌年に『新青年』と改称)を創刊した。その中で陳独秀は欧米の近代的な思想(デモクラシーとサイエンス)を紹介するとともに中国の思想の根幹である儒教と儒教道徳に基づく家族制度を厳しく批判し、新中国の建設を念願する青年たちの心を捉えていった。

 陳独秀とともに文学革命で中心的な役割を果たした胡適(こせき、こてき、1891〜1962)は『新青年』に『文学改良芻議』を発表し(1917)、白話文学を提唱した。その中で胡適は、旧来の難解な文語文を廃して、白話すなわち口語文を用いることを提唱した。

 そして魯迅(1881〜1936)は『阿Q正伝』(1921)・『狂人日記』(1918)などを発表して白話文学運動を発展させた。

 胡適の提唱した白話文学運動を中心として展開された文学革命は中国の青年たちに大きな影響を及ぼし、後の五・四運動を思想面から準備した。

 五・四運動の中心となったのは北京大学であった。1916年に北京大学学長となった蔡 元培(1868〜1940)は、陳独秀(1917年に北京大学文科科長に就任)・胡適(1917年に北京大学教授に就任)・李大サ(りたいしょう、1889〜1927、1918年に北京大学教授(史学)兼図書館長に就任)ら進歩派知識人を教授に任用して学風を一新した。

 李大サはロシア革命の影響を受けて北京大学にマルクス主義研究会を組織し(1918)、後の五・四運動の理論的指導者となった。

 中国は、1919年1月に開かれたパリ講和会議で二十一カ条の要求の取消しや山東省におけるドイツの権益の返還を要求したが、中国の要求は列強によって退けられ、4月末に山東省のドイツ利権を日本が継承するという情報が入ってきた。

 北京大学の学生たちは、5月7日(日本が二十一カ条の要求を通告した日で国恥記念日とされていた)に決起することを呼びかけた。しかし、政府が5月7日のデモを武力で解散させようとしているとの情報が入ったため、デモを急遽5月4日に繰り上げた。

 1919年5月4日、北京の学生約3000人が「二十一カ条を取消せ」・「青島を返せ」・「売国奴曹汝霖(二十一カ条の要求の交渉にたずさわった人物)らを罷免せよ」などと書いた小旗を振りながら市内をデモ行進し、亡国の危機を訴えるビラを配り、曹汝霖の邸宅を襲って放火し、軍隊と衝突して学生32名が逮捕された。これが五・四運動である。

 五・四運動は各地に波及し、全国の至る所で集会・デモ・労働者のストライキ・日本製品のボイコットなどの大衆運動が展開され、さらに全国的な学生・市民・労働者の反帝国主義・反封建主義の新しい愛国運動へと発展していった。

 こうした状況の中で、北京政府は6月に入って学生を釈放し、曹汝霖らを罷免し、6月28日にはヴェルサイユ条約の調印を拒否した。

 五・四運動を上海で目撃した孫文はその影響の下で、1919年10月に秘密結社であった中華革命党を中国国民党と改称して公開政党とした。

 また1921年7月には、上海でコミンテルンの支援によって陳独秀を委員長とし、約50名の党員からなる中国共産党が結成された。

 モンゴル高原では、1911年に辛亥革命が起こると外モンゴルは独立を宣言し(1911.11)、ラマ教の活仏を皇帝とする君主国となった。

 しかし、1919年末には再び中国の支配下におかれ、1920年にはシベリアで赤軍に敗れたウンゲルン=ステルンベルグの率いる白軍がモンゴルに侵入し、中国軍を破って再び活仏を皇帝として実権を握り、暴政を行った。

 こうした状況の中で、1920年にはロシアで革命思想の影響を受けて帰国したチョイバルサン(1895〜1952)やロシア革命の成功で社会主義思想に目ざめたスヘバートル(1894〜1923)らによってモンゴル人民革命党が結成された。

 チョイバルサンらは単独ではステルンベルグの白軍と戦う力がなかったので、ソヴィエト赤軍の援助を要請し、1921年7月にモンゴルの革命軍とソヴィエト赤軍はクーロン(現ウランバートル)を占領して革命政府を樹立した。

 革命政府は初め活仏を元首としたが、活仏の死後、チョイバルサンらは1924年11月に社会主義に基づくモンゴル人民共和国の成立を宣言し、モンゴルはソ連に続く2番目の社会主義国となった。以後チョイバルサン(首相、任1938〜52)のもとで社会主義の建設が進められた。  




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