1 日本の動向
日本は、第一次世界大戦が始まると日英同盟を理由にドイツに宣戦を布告し(1914.8)、中国におけるドイツの租借地膠州湾を攻撃し、ドイツの東洋艦隊の根拠地であった青島を占領し(1914.11)、また太平洋上の赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した(1914.10)。
その後、日本は連合国へ物資を供給し、戦争で途絶えたヨーロッパ諸国の商品に換わって日本の商品が中国・インド・東南アジアなどに進出したので日本は輸出超過に転じた。鉱業・造船・化学を中心とする工業も発展し、工業生産高は1914〜19年の間に約5倍となった。また世界的な船舶不足の中で海運業が莫大な利益をあげて多くの「船成金」が生まれ、日本経済は大戦景気を謳歌した。
この間、日本は第一次世界大戦の勃発によって列強が中国を顧みる余裕がないのに乗じて大陸での勢力拡大を積極的に進め、1915(大正4)年1月18日に中国の袁世凱政府に対して「二十一カ条の要求」をつきつけた。二十一カ条の要求は、5号21カ条から成り、その主な内容は以下の通りである。
第1号(山東省に関する件) 山東省のドイツの権益を日本に譲渡すること
第2号(南満州及び東部内蒙古に関する件) 旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道・安奉鉄道の権益期限をさらに99年延長すること
第3号(漢冶萍公司に関する件) 漢冶萍公司(かんやひょうコンス、漢陽鉄廠・大冶鉄山・萍郷炭坑を統合した株式会社)を日中両国の合弁とすること
第4号(港湾島嶼不割譲に関する件) 中国沿岸の港湾と島嶼を他国に譲与または貸与しないこと
第5号(中国一般に関する件) 中央政府の政治・財政・軍事の顧問として日本人を招聘すること、また要地の警察を日中合同とするか警察官庁に日本人を招聘すること
日本は、要求提出後25回の交渉の後、5月7日に第5号を削除して最後通牒を発し、5月9日についに受諾させた。
中国では二十一カ条の要求の報せが伝わると各地で反対運動が起こり、中国人の対日感情は急激に悪化し、5月7日と9日を国恥記念日として以後毎年デモなどの反日民族運動が展開されることとなる。
1917年のロシア革命によってソヴィエト政権が誕生すると、日本は1918年8月にシベリアに出兵し、対ソ干渉戦争に加わって各地で反革命軍を援助した。そして米・英・仏が撤退した後も日本だけが駐兵して内外から激しい非難をあび、1922年に撤兵した。
日本は第一次世界大戦のパリ講和会議では、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領として獲得し、さらに1920年に発足した国際連盟では常任理事国となって国際的な地位を向上させた。
しかし、ワシントン会議(1921〜22)で九カ国条約・四カ国条約が成立すると、中国における特殊権益と独占的な地位は否定され、山東省の旧ドイツの利権も中国に返還された。 また石井=ランシング協定と日英同盟は破棄された。
国内では、1918(大正7)年には米騒動が起こり、1920年には戦後恐慌が起こった。さらに1923年には関東大震災が起こって日本経済は大打撃を受け、不況はさらに深刻となった。
また戦後、自由主義・民主主義的風潮が高まり(大正デモクラシー)、労働運動も活発となり、社会主義思想も広まった。こうした状況の中で、1918年には最初の本格的な政党内閣である原敬内閣(1918〜21)が成立し、1925年5月には男子普通選挙法が公布された。これによって今までの納税資格が撤廃されて25歳以上の男子に選挙権が、30歳以上の男子に被選挙権が与えられた。
しかし、男子普通選挙法の成立直前には治安維持法(1925.4公布)が成立していた。治安維持法は、ソ連の承認(1925)後に社会主義運動が活発化すること及び男子普通選挙法の実施に対する警戒から、労働運動や社会主義運動の取締りを目的とする法律で、後に罰則に死刑が加えられ、言論・思想弾圧に用いられた。