8 ソ連
1922年に成立したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)では、1924年にレーニンが死ぬと後継者と社会主義建設の路線をめぐって争いが起こった。
革命後に外務人民委員(外務大臣)・陸海軍人民委員を務めてレーニンの後継者と目されていたトロッキー(1879〜1940)は、ロシアのような後進国では社会主義建設は孤立しては不可能であり、先進国の革命が必要であるという世界革命論(永久革命論)を唱えた。
これに対して革命後に民族人民委員となり、1922年に党中央委員会書記長となったスターリン(1879〜1953)は、ソ連のような広大な国では一国だけでも社会主義建設は可能であるという一国社会主義論を唱えた。
トロッキーが唱えた世界革命論(永久革命論)とスターリンが唱えた一国社会主義論をめぐって激しい論争が続いたが、1925年12月に開かれた共産党大会では スターリンの唱える一国社会主義論が採択された。
党内論争に敗れたトロッキーは1927年に共産党を除名され、1929年には国外追放となった。トロッキーはトルコなどを経てメキシコに亡命し、ソ連批判・スターリン批判を続けたが、1940年にメキシコで暗殺された。
一国社会主義を唱えて論争に勝利したスターリンは、トロッキー・ジノヴィエフ・ブハーリンら反対派を退け、1920年代末までには党と政府の実権を掌握した。
この間、スターリンは、1928年に新経済政策(NEP、ネップ)を改めて、第1次五カ年計画(1928〜32)に着手し、重工業に重点をおく工業化と農業の集団化を推し進めた。
資本主義諸国が世界恐慌で工業生産を激減させる中で、ソ連だけは世界恐慌の影響をほとんど受けることなく、五カ年計画による工業化は計画を上回るテンポで進み、工業生産は5年間で倍増し、ソ連は工業国となった。
また農業の分野でも集団化と機械化が急速に進み、コルホーズ(集団農場、土地・農具などを共有して共同経営を行い、農民は労働量に応じて利益の分配を受ける形態)やソフホーズ(国営農場、土地・農具などは国有で、ここで働く者は労働者として賃金が支給される形態)の建設が進められた。
農業の集団化に対しては特にクラーク(富農)の抵抗が強かったが、政府はクラークを投獄・流刑に処して集団化を強行した。そのため1932〜33年には飢饉が起こり、約500万人の餓死者が出た。
第1次五カ年計画の成功によって権力を強化したスターリンは、さらに1933年には引き続いて第2次五カ年計画(1933〜37)に取り組んだ。
第2次五カ年計画では重工業、特に軍需工業に重点がおかれたが、消費財の生産増大による国民生活の向上がはかられた。
そして1938年に始まった第3次五カ年計画(1938〜42)では、ナチスの台頭に備えて工業地帯をウラル・シベリアに移し、軍備の増強を目ざしたが、独ソ戦の開始(1941)によって中断された。
この間、スターリンは1930年代の大粛清(1934〜37)で反対派を大量に処刑・流刑(強制収容所に収容)に処して独裁権を握り、1936年にはソヴィエト社会主義共和国連邦憲法、いわゆるスターリン憲法を制定した。
スターリン憲法は「各人からその能力に応じて、各人へその労働に応じて」という社会主義の原則を成文化したもので、生産手段の公有・生存権の保障・民族の平等・18歳以上の男女普通選挙などが規定された典型的な社会主義憲法として1977年まで存続したが、候補者推薦制や共産党一党独裁は変わらず、民族の平等や信教の自由などは実際には十分守られなかった。
対外的には、ソ連は1933年にはアメリカに承認され、翌1934年に国際連盟に加入して常任理事国となった。
またソ連共産党を中心とするコミンテルン(第3インターナショナル)は、1935年にモスクワで開かれたコミンテルン第7回大会でファシズムの台頭に対抗するために人民戦線戦術へ転換し、ファシズムと戦争に反対する全勢力と組織を結集したファシズム人民戦線の結成を各国共産党に呼びかけた。