7 東・南欧諸国の情勢
第一次世界大戦後、東・南欧には民族自決の原則に従ってポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国と多くの新興国が誕生した。
ポーランドは、1918年11月にポーランド共和国として独立を宣言し、それまで独立のために戦ってきたピウスツキ(1867〜1935、任1918〜22)が初代大統領に就任した。
ピウスツキは憲法制定に着手するとともに、ソヴィエト=ポーランド戦争(1920〜21)ではフランスの援助を得てソヴィエト軍を破り、ウクライナ・白ロシアの一部を獲得した。
ピウスツキは1922年に左右から攻撃されて辞任したが、1926年には軍部のクーデターで再び政権を握り、首相・陸相を兼任して1935年に死去するまで独裁的な権力を握った。
チェコスロヴァキアでは、1918年10月にチェコスロヴァキア共和国が成立するとマサリクが初代大統領に選ばれた。
「チェコ建国の父」と呼ばれるマサリク(1850〜1937、任1918〜35)は、プラハ大学教授として哲学を教授する一方でチェコの民族独立運動に加わり、チェコ進歩党を組織した。第一次世界大戦が起こると亡命し、ベネシュらと「チェコ国民会議」を設立し、英・仏など連合国の支持によるチェコの独立を説いた。そしてチェコスロヴァキア共和国が成立すると初代大統領に選ばれ(1918.10)、以後連続4期17年間その地位にあった。
マサリクとともにチェコの独立運動に努めたベネシュ(1884〜1948)は、1918年に外相となり、1935年には大統領となった。しかし、1938年のミュンヘン協定の成立で亡命し、第二次世界大戦後の1946年に再び大統領となった。
チェコスロヴァキアは、かってのベーメン(ボヘミア)を中心に工業が発達していたので独立後も工業が発展し、ほとんどが農業国である東・南欧の中にあって唯一の工業国として高い生活水準と社会的安定を維持することが出来た。またチェコスロヴァキアは他の多くの東・南欧諸国が独裁体制下に入る中で議会政治を守り通した唯一の国でもあった。
ハンガリーでは、1918年11月に共和国宣言がなされたが、敗戦直後から連合国の厳しい領土割譲要求に苦しむ中で、一時ソヴィエト政権が成立した。
ベラ=クン(1886〜1937)は第一次世界大戦中にロシア軍の捕虜となり、共産主義者となって帰国した。そしてハンガリー共産党・社会党を指導して1919年3月にハンガリー=ソヴィエト共和国の樹立を宣言して首相となった。
しかし、ベラ=クン政権は5ヶ月も持たず、フランスの支援するルーマニア軍の軍事干渉によって打倒された(1919.8)。
そしてルーマニア軍が撤退すると(1920.2)、ホルティ(1869〜1959、ハンガリーの軍人・政治家)が王政を復活させ、ハンガリー王国摂政となって(1920)独裁権力を握った。
ホルティは後にナチスに協力し、1944年に失脚して亡命した。
南スラヴ族のセルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人が大同団結したセルブ=クロアート=スロヴェーン王国は、1918年12月にオーストリアからの独立を宣言し、サン=ジェルマン条約(1919)で正式に承認された。
しかし、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国ではセルビア人を中心とする集権的国家に対してクロアティア人・スロヴェニア人が連邦制を主張したために内紛が絶えず、1929年には国王が独裁制を宣言して憲法を停止し、議会を解散した。そして同年10月には国名をユーゴスラヴィアと改称した。
イギリスとフランスは東欧を共産主義ソヴィエトへの防壁にしようとし、戦後の復興に対して経済援助を行うとともに軍事援助を行った。
特にフランスは、ハンガリー=ソヴィエト政権に対するルーマニアの軍事干渉(1919)を支援し、またソヴィエト=ポーランド戦争(1920〜21)ではポーランドを援助し、フランス・ポーランド同盟条約(1921)を結んだ。さらに1924年にはチェコスロヴァキアと相互援助条約を結び、1927年にはユーゴスラヴィアとも同盟条約を結んだ。
チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・ルーマニアの三国は、直接的にはハンガリーの領土回復に備えて、相互に同盟条約を結んだ(チェコ・ユーゴ同盟条約(1920)、ルーマニア・チェコ同盟条約(1921)、ルーマニア・ユーゴ同盟条約(1921))。
この三国の同盟関係は小協商(1920〜39)と呼ばれているが、フランスは小協商と結んでドイツの復興を警戒するとともに東欧に足場を築こうとしたが、小協商はナチスの台頭によって解体した。