2 ヴェルサイユ体制下の欧米

6 ドイツ共和国

 帝政が倒れて共和国となったドイツでは社会民主党を中心とする臨時政府が政権を握ったが、社会主義革命を目ざす独立社会民主党やスパルタクス団との対立が激しくなっていった。

 独立社会民主党は1917年に社会民主党内の反戦派が結成した革命政党であり、スパルタクス団は社会民主党最左派のカール=リープクネヒト(1871〜1919)・ローザ=ルクセンブルク(1870〜1919、ドイツの女性革命家)らが結成した急進的革命組織で、1918年末から1919年初めに他のグループとドイツ共産党を結成した。

 1919年1月初め、スパルタクス団が武装蜂起したが(ドイツ革命、1918.11.3〜1919.1)、社会民主党を中心とする臨時政府は軍部と結んでこれを鎮圧した。そしてこの蜂起に参加したカール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルクはともに虐殺された。

 同年1月に行われた国民議会選挙では社会民主党が第一党となり、翌2月にヴァイマル(ワイマール)で国民議会が開かれた。

 ヴァイマル国民議会はヴェルサイユ条約を承認し、ドイツ共和国憲法(通称ヴァイマル憲法)を採択・公布した(1919.8公布)。

 ヴァイマル憲法は、主権在民・男女平等の普通選挙・労働者の団結権と団体交渉権の保障・7年任期の大統領制などが規定され、当時の世界で最も民主的な憲法であり、社会権(生存権)を初めて取り入れた憲法として有名である。

 またヴァイマル国民議会では社会民主党のエーベルト(1871〜1925、任1919〜25)が臨時大統領に選出され(1922年に正式の初代大統領となる)、ドイツ共和国の基礎が定まった。ヴァイマル憲法の制定からナチスの政権獲得までのドイツ共和国はヴァイマル共和国(1919〜1933)と呼ばれている。

 こうして発足したヴァイマル共和国は巨額な賠償金の支払いや左右両派からの攻撃に苦しみ、政局は安定しなかった。

 特に敗戦国ドイツの能力をはるかに超える賠償金の支払いは国民生活を極度に圧迫した。そのためドイツは連合国に賠償金支払いの猶予を要請したが、フランスは強硬に反対し、1923年1月ベルギーをさそってルール占領を行った。

 これに対してドイツはストライキで抵抗したため(消極的抵抗)、生産が低下して激しいインフレになった。

 1914年7月には1ドル=4.2マルク、1922年7月には1ドル=493.2マルクであったが、ルール占領が始まった1923年1月には1ドル=17972マルクとなり、9月には98860000マルクとなり、1923年11月にはついに1ドル=4200000000000マルクとなった。

 この破局的なインフレによってマルクの価値は1兆分の1に下落し、マルクは紙くず同然となり、給料生活者の生活は破滅状態となった。こうした状況の中でヒトラーによるミュンヘン一揆(1923.11、ナチスによるクーデター)も起こったが鎮圧された。

 このドイツの危機の中で首相となったシュトレーゼマン(1878〜1929、任1923)は通貨の安定・経済の再建に努めた。彼はレンテンマルク(不動産を担保とする不換紙幣)を発行し、1兆マルクを1レンテンマルクと交換し、奇跡的にインフレを克服することに成功した。

 同年首相を辞任したシュトレーゼマンは、その後歴代内閣の外相を務め、英・仏との協調外交を推進し、ドーズ案の成立(1924)・ロカルノ条約の調印(1925)・ドイツの国際連盟加入(1926)などに尽力し、ノーベル平和賞を受賞した(1926)。

 未曾有のインフレによってドイツ経済が破綻する中で、アメリカの実業家・財政家ドーズ(1865〜1951)を長とする専門委員会がドイツの賠償金問題に関するドーズ案を作成し(1924.4)、ドイツの賠償金支払いの負担を当面軽減し、ドイツに巨額の外資(主にアメリカ資本)を貸与してドイツ経済を復興することを決定した。そしてドーズ案の成立によってフランスはルールから撤兵した(1925)。 

 ドーズ案は、ドイツ経済を復興して賠償金支払いを可能にし、ドイツから賠償金を受け取ったフランス・イギリス(フランスは52%を、イギリスは23%を受け取ることになっていた)にそれを対米債務の返済に充てさせ、国際経済を回復させようとするものであった。

 ドーズ案によってドイツ経済は復興し、1925〜26年頃には戦前の水準を回復した。

 1925年に大統領のエーベルトが急死し、保守派と軍部に推されたヒンデンブルク(1847〜1934、任1925〜34、第一次世界大戦中のタンネンベルクの戦いの勝利によって国民的英雄となった将軍)が大統領選に圧勝して大統領に就任した。

 ヒンデンブルクは、当初シュトレーゼマンの協調外交を支持したが、世界恐慌に対処できず、1932年に再選されたが、翌1933年にヒトラーに組閣を許した。

 この間、賠償金問題については、アメリカの財政家ヤング(1874〜1962)を長とする第2回専門委員会が1929年6月にヤング案を作成した。ヤング案では賠償総額は約358億金マルクに削減され、支払期間は59年間に緩和された。

 しかし、ヤング案は世界恐慌の激化とともに実施不可能となり、1932年にローザンヌ会議で修正されて賠償総額は30億金マルクにまで引き下げられたが、翌1933年に成立したヒトラー内閣はこれを破棄した。 




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