2 ヴェルサイユ体制下の欧米

4 戦後のイギリス

 第一次世界大戦後のイギリスは戦勝国とはいえ、戦争による損害も大きく、戦前の国際的に優越した地位を失った。

 イギリスは戦争を通じてアメリカの債務国となり、戦後のヨーロッパの購買力の減少やアメリカや日本の進出などによって輸出が大幅に減少し、もはや戦前のような経済的な地位を維持することは出来なくなった。

 挙国一致内閣(1916〜22)を率いて戦争遂行に尽力したロイド=ジョージは、1918年末の総選挙でも勝利し、パリ講和会議では大きな役割を果たした。

 この間、1918年には第4回選挙法改正を行い、21歳以上の男子と30歳以上の夫人に選挙権を拡大したので、1918年末の総選挙はイギリスで最初の普通選挙による選挙となった。

 第一次世界大戦後のイギリスで注目される出来事は、労働党の躍進・労働党内閣の成立である。
 1922年、保守党が連立から離脱したため、ロイド=ジョージ内閣は総辞職し、11月に総選挙が行われた。1920年の恐慌による失業者の増大・自由党の内部分裂という状況のもとで行われたこの選挙で、労働党は142議席を獲得して保守党に次ぐ第2党に躍進した。

 そして翌1923年12月に行われた総選挙では保守党は過半数が取れず、保守党258議席・労働党191議席・自由党159議席という結果となった。
 1924年1月、自由党と連立した労働党が初めて政権につき、マクドナルドを首相とする労働党内閣が成立した。

 マクドナルド(1866〜1937)は貧しい農家に生まれ、小学校卒業後は代用教員をしながら学び、18歳でロンドンに出てジャーナリストなどを経て独立労働党に入党した(1894)。労働代表委員会が成立すると書記となり、労働代表委員会が労働党と改称した年に下院に当選し(1906)、後に党首となった(1911)。第一次世界大戦では非戦論を唱えて売国奴と非難され、1918年の選挙では落選したが、1922年には当選して再び党首に選ばれた。そして1924年に自由党の支持を得て最初の労働党内閣を組織した。

 マクドナルドは外相を兼ねてソ連の承認・ドーズ案の成立やフランスのルール撤兵など国際協調に寄与したが、マクドナルド内閣はわずか10ヶ月の短命に終わり、1924年末に第2次ボールドウィン保守党内閣(1924〜29)が成立した。

 この保守党内閣の時、1926年に開かれたイギリス帝国会議で「イギリスと自治領は、相互に平等であり、内治外交いずれの面でも互いに従属することなく、しかも王に対する共通の忠誠によって結ばれ、イギリス連邦の一員として自由に連合している。」という宣言が行われ、従来のイギリス帝国にかわってイギリス連邦が事実上成立した。

 また1928年には第5回選挙法改正が行われ、21歳以上のすべての男女に選挙権が与えられ、1832年の第1回選挙法改正以来約100年かかってついに普通選挙が完成した。

 翌1929年5月に行われた総選挙では労働党が初めて第1党となり、第2次マクドナルド労働党内閣(1929〜31)が成立したが、やがてイギリスも世界恐慌に巻き込まれることになる。

 第一次世界大戦直前の1914年6月にやっとアイルランド自治法案が成立したが、第一次世界大戦の勃発によって実施が延期された。

 しかし、イギリスからの独立を求めて結成されたシン=フェイン党(1905年結成)は即時独立を主張し、イギリスが対ドイツ戦に没頭していた1916年4月のイースター(復活祭)にタブリンで蜂起し、共和国樹立を宣言したが鎮圧された(イースター蜂起)。

 イースター蜂起に参加して以来勢力を拡大したシン=フェイン党は、1918年の総選挙で大勝し、翌年アイルランド議会を組織してデ=ヴァレラ(1882〜1975、アメリカ生まれのアイルランド人)を大統領に選出してアイルランド共和国の成立を宣言した(1919)。

 この状況を見たロイド=ジョージ内閣は譲歩し、1922年に北部のアルスター地方を分離し、自治領としてアイルランド自由国(1922〜37)を成立させた。

 しかし、デ=ヴァレラら急進派はこれを承認せずにさらに抗争を続けた。1932年に首相となったデ=ヴァレラは、イギリス国王に対する忠誠を拒んで完全独立の方策を進め、1937年に共和国を宣言して国号をエールと称した。イギリスはこれを黙認したのでアイルランドはついに完全な独立国となった。




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