2 国際協調の高まりと軍備制限の進展
ヴェルサイユ体制の下でも小規模な国際紛争が続発した。ギリシア=トルコ戦争(1919〜22)・イタリアによるフィウメ占領(1919)・ソヴィエト=ポーランド戦争(1920)などが起こり、1923年1月にはフランス・ベルギーがドイツの賠償支払い遅延を理由に重工業地帯のルール地方を占領するという出来事(ルール占領、ルール出兵)が起こったがドーズ案の成立によって撤兵した(1924.9)。
戦後の混乱が収まると、各国間に国際協調の機運が高まった。
1925年に外相となったフランスのブリアン(1862〜1932、1909〜1929の間に11回首相を務めた)はルール占領の失敗後ドイツとの協調に転じ、またドイツのシュトレーゼマン(1878〜1929、1923年に首相)も協調外交を推進したので、フランスとドイツの関係が好転し、1925年10月にはフランス・ドイツ両国とイギリス・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコスロヴァキアの7カ国がスイスでロカルノ条約に仮調印し、12月にはロンドンで正式調印した。
ロカルノ条約は、ドイツとフランス・ベルギー国境の現状維持と不可侵及びラインラントの非武装を確認したラインラント条約、国際紛争を仲裁裁判で解決することを約した条約、そしてチェコスロヴァキアとポーランドがフランスと結んだ相互援助条約から成り、ドイツの国際連盟への加入を条約発効の条件とした。
ロカルノ条約の成立により、ドイツは1926年に国際連盟に加入し、常任理事国となった。またドイツとフランスの関係の好転により、ヨーロッパの国際関係はしばらくの間安定期を迎えた(相対的安定期)。このロカルノ条約の成立によって生まれたヨーロッパの国際関係をロカルノ体制と呼んでいる。
ロカルノ条約の成立によって国際協調の機運がますます高まるなかで不戦条約(ブリアン=ケロッグ協定)が調印された。
不戦条約は、1927年にフランス外相ブリアンが提唱してフランスとアメリカの間で結ばれた条約を、アメリカの国務長官ケロッグ(任1925〜29)が世界各国に呼びかけ、1928年8月にパリで15カ国が調印した条約で、後には63カ国が参加した。参加国は国際紛争解決のため、及び国策遂行の手段としての戦争を放棄することを誓ったが、条文の規定が抽象的で制裁手段を欠いたので、結局第二次世界大戦を防ぐことが出来なかった。
アメリカは国際連盟には参加しなかったが、戦後の重要な国際会議では指導的な役割を果たした。
1921年11月、アメリカ大統領ハーディング(任1921〜23)の提唱によってワシントン会議(1921.11〜22.2)が開かれ、軍備制限問題と中国・太平洋問題が討議された。
主催国であったアメリカのねらいは、米英海軍力の均等・日英同盟の破棄・日本の中国進出の阻止の3つにあったと言われている。
会議では、最も対立の少なかった太平洋問題に関する四カ国条約が米・英・仏・日の間で結ばれ(1921.12)、太平洋上の領土と権益の相互尊重と現状維持を約した。また第4条において日英同盟の終了が宣言され、四カ国条約の成立によって日英同盟は自動的に解消した。
そして翌22年2月には海軍軍備制限条約と中国に関する九カ国条約が結ばれた。
海軍軍備制限条約では、当時の主攻撃兵器の主力艦(戦艦と巡洋戦艦)の保有トン数比率が米・英・日・仏・伊で5・5・3・1.67・1.67と定められ、今後の10年間の主力艦の建造中止も定められた。
第一次世界大戦まで圧倒的な海軍力を誇ってきたイギリスとアメリカの比率が同じになったことは第一次世界大戦後の国力の変化をよく示している。また日本は米・英各10に対して日本7の比率を主張したが結局5・5・3の比率を受け入れた。
九カ国条約では米・英・日・仏・伊・中国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの9カ国が中国の主権・独立及び領土保全の尊重、中国における門戸開放・機会均等を約した。
第一次世界大戦中に全権大使石井菊次郎とアメリカ国務長官ランシングの間で結ばれた石井=ランシング協定(1917.11、アメリカは日本の中国における特殊権益を認め、日本は中国に対する機会均等を認めるという内容)は九カ国条約の成立によって存在意義を失い、1923年4月に破棄された。
また日本は山東省権益を中国に返還することになったので、日本の中国進出は「二十一カ条の要求」以前に戻った。
ワシントン会議を中心に形成されたアジア・太平洋地域の戦後秩序はワシントン体制と呼ばれている。
ワシントン会議で主力艦が制限されたので、各国は以後補助艦の建造に主力を注ぎはじめたので、1927年にジュネーヴで軍縮会議が開かれた。しかし、フランス・イタリアは参加せず、米・英・日の三国で補助艦の制限について討議したが合意に達せず、会議は決裂した。
次いで1930年にはロンドン軍縮会議が開かれ、前年に始まった世界恐慌で軍備拡張の財政負担に苦しんでいた米・英・日は補助艦保有比率を10・10・7とする海軍協定を結んだ。しかし、ロンドン海軍軍縮条約は6年間の期限付きであったので、1935年から36年にかけて第2次ロンドン軍縮会議が開かれたが失敗に終わり、再び激しい建艦競争が始まることとなった。