2 ヴェルサイユ体制下の欧米

1 ヴェルサイユ体制の成立

 1919年1月18日、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議が32カ国の参加のもとに開かれた。

 パリ講和会議の基礎となった原則はアメリカの大統領ウィルソンが大戦中に発表した十四カ条(十四カ条の平和原則)であった。

 十四カ条はソヴィエト政権の「平和に関する布告」や秘密外交文書の暴露に対処する形で1918年1月に発表されたが、その主な条項は秘密外交の廃止・海洋の自由・関税障壁の撤廃・軍備縮小・植民地問題の公正な解決・ヨーロッパ諸民族の民族自決・国際平和機構の設立である。

 このうち民族自決の原則とは、各民族はそれぞれの運命を自ら決定する権利を持ち、また自らの国家を建設できるという原則で、国際協調主義とともにヴェルサイユ体制を支える重要な原則となった。しかしヴェルサイユ体制ではヨーロッパにのみ適用され、その適用が最も必要であったアジア・アフリカには適用されなかった。

 パリ講和会議で中心的な役割を果たしたのは五大国(アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本)の代表であり、特にアメリカの大統領ウィルソン(任1913〜21)・イギリス首相のロイド=ジョージ(任1916〜22)・フランス首相のクレマンソー(任1917〜20)の三巨頭であった。なお日本の首席全権は西園寺公望であった。

 ウィルソンは理想主義的な十四カ条を講和の原則とし、ドイツを寛大な条件で許すべきと考えたが、クレマンソーはドイツに対する厳しい制裁とドイツを徹底的に弱体化することを強く主張した。そしてロイド=ジョージはウィルソンの理想主義とクレマンソーの対独復讐の調停役を果たした。

 結局、ウィルソンは最大の目的であった国際連盟規約を条約に盛り込むために譲歩・妥協し、はじめはドイツに対する和解を説いていたロイド=ジョージもイギリス国民の対独敵意に押されてクレマンソーに同調したため、クレマンソーの主張する対独強硬策が通り、十四カ条の原則は部分的にしか実現しなかった。

 1919年6月28日、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で、連合国とドイツとの間にヴェルサイユ条約が調印され、以後連合国とオーストリア・ハンガリー・ブルガリア・トルコとの間にそれぞれサン=ジェルマン条約(1919.9)・トリアノン条約(1920.6)・ヌイイ条約(1919.11)・セーヴル条約(1920.8)が結ばれた。なおサン=ジェルマン・トリアノン・ヌイイ・セーブルはパリ近郊の都市名・地名である。

 ヴェルサイユ条約は15編440条からなり、その第1編は国際連盟規約であった。その主な内容は以下の通りである。

 ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに、そしてポーランド回廊をポーランドに割譲し、さらにベルギー・チェコスロヴァキア・リトアニア・ポーランドに若干の領土を割譲した。ポーランド回廊とはドイツ本土と東プロイセンの中間地帯で、ポーランドに海への出口を与えるためにポーランド領としたので、ドイツは本土と東プロイセンが分断されることとなった。

 またダンチヒは国際連盟管理下の自由市となり、ザール地方は国際連盟管理下に置かれ15年後の住民投票で帰属が決定されることとなった。

 この結果、ドイツは戦前の面積・人口の10%以上を失うこととなり、さらに海外の全植民地も失い、将来のオーストリアとの合併も禁止された。

 ドイツは軍備も大幅に制限された。徴兵制は禁止され、陸軍は10万、海軍は兵員1万5000・艦艇36隻に制限され、軍用飛行機・潜水艦の所有も禁止された。

 またフランス・ドイツの国境での紛争を防止するためにライン川の東岸50kmの地帯は非武装地帯とされてドイツの軍事施設と駐兵は禁止され、西岸は連合国が15年間保障占領することとなった(ラインラントの非武装)。

 さらにドイツは巨額の賠償金を課せられた。但し、ヴェルサイユ条約では総額や支払い方式は決定されず、1921年4月のロンドン会議で総額が1320億金マルク(天文学的数字といわれた)に決定された。

 オーストリアはサン=ジェルマン条約によってドイツとの合併を禁止され、旧帝国内のポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキア・セルブ=クロアート=スロヴェーヌ(後のユーゴスラヴィア)の独立を承認し、また「未回収のイタリア」をイタリアに割譲したので、かっての大帝国は一挙にその面積・人口が戦前の約4分の1に減少した。

 ハンガリーはトリアノン条約によってルーマニア・セルブ=クロアート=スロヴェーヌ・チェコスロヴァキアに領土を割譲して面積は3分の1、人口は5分の2に減少した。

 ブルガリアもヌイイ条約によってセルブ=クロアート=スロヴェーヌ・ギリシア・ルーマニアに領土を割譲した。

 トルコは、イラク・ヨルダン・パレスチナをイギリスの、そしてシリア・レバノンをフランスの委任統治領とすること、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡の開放・国際管理・非武装、極端な軍備制限、治外法権の承認などを規定した屈辱的なセーヴル条約を承認した。

 この結果、ヨーロッパでは民族自決の原則に従って、旧オーストリア=ハンガリー帝国とロシア帝国の領内からフィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(1929年にユーゴスラヴィアと改称)が独立した。しかし、民族自決の原則はヨーロッパ以外には適用されず、アジア・アフリカの人々を失望させた。

 トルコに属していた中東地域に関しては、大戦中にアラブ人に独立を約束したフセイン=マクマホン協定(1915)とユダヤ人に独立を約束したバルフォア宣言(1917)はともに無視され、イラク・ヨルダン・パレスチナはイギリスの、シリア・レバノンはフランスの委任統治領とされた。

 委任統治とは、第一次世界大戦後の敗戦国ドイツ・トルコの領土処分の一形式で、国際連盟から統治を委任されるという形をとったが、事実上は領土の再分割であった。なお、第一次世界大戦中に日本が占領した南洋諸島も戦後日本の委任統治領となった(1920)。

 パリ講和会議でつくられた戦後の新しい国際秩序はその中心となったドイツとのヴェルサイユ条約からヴェルサイユ体制と呼ばれている。

 ウィルソンの14カ条に基づいて創設された国際連盟は世界史上最初の本格的な国際平和機構で、ヴェルサイユ条約によって規定され、1920年1月10日に正式に発足した。設立時の加盟国数は42カ国であったが1934年には最多の58カ国が加盟した。

 本部はスイスのジュネーヴに置かれ、総会・理事会・連盟事務局を中心に運営された。
 総会は国際連盟の最高決議機関で、全加盟国1国1票で構成し、全会一致が原則とされた。

 理事会は国際連盟の最高機関の一つで、イギリス・フランス・イタリア・日本の4常任理事国と4非常任理事国(22年から6カ国、26年から9カ国となる)で構成された。

 また国際連盟には国際労働機関(ILO)と国際司法裁判所が設置された。ILOは各国内の労働問題の調整機関として勧告や調停を行った。また国際司法裁判所はオランダのハーグに常設され、国際紛争の裁判を行ない、その判決には拘束力があったが実効性には問題があった。

 国際連盟には多くの問題点・欠点があったので、小紛争の調停などには一定の成果をあげたが、大国の関わる紛争解決には非力であった。

 国際連盟の最大の問題点はアメリカ・ドイツ・ソヴィエト政権(後のソ連)の大国が不参加または排除されたことにあった。

 提唱国のアメリカでは戦後、孤立主義が台頭し、上院でヴェルサイユ条約批准が否決された(1919.11)ために参加しなかった。敗戦国のドイツと社会主義のソヴィエト政権は排除された。

 また武力制裁がなく、経済制裁(経済封鎖)のみであったこと、総会の議決が全会一致で意思統一が困難であったことなどの問題を抱えていたため、国際連盟は第二次世界大戦を防止することが出来なかった。 




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