5 戦時共産主義と新経済政策
ソヴィエト政権は、革命後土地を無償で没収して国有地として農民に分配し、労働者の工場管理と大工業の国有化を進め、銀行・外国貿易を国営とした。
さらにソヴィエト政権は対ソ干渉戦争と反革命軍との内戦の危機に対処するために、1918年11月には「全てを戦場に」のスローガンのもとで、中小工場を国有化し、商業も国営化して個人の売買をすべて禁止した。 またこれまでの公定価格による穀物の買い上げを廃止して穀物を強制的に徴発し、食料を配給制とした。労働義務制によって旧資本家や知識人にも肉体労働が課せられた。
このような経済政策は戦時共産主義(1918〜21)と呼ばれている。この戦時共産主義は非常事態への対応としては役立ち、赤軍への武器・弾薬や食料の補給などは増加した。
しかし、7年間にわたる戦争・内乱でロシア経済は荒廃し、1920年の工業生産は戦前の約14%・穀物生産も約2分の1に減少していた。そのため都市では食料・燃料が欠乏し、農村では農具・衣料が欠乏していた。
特に穀物の強制徴発に対する農民の反発は強く、農民は生産意欲を失って穀物生産は減少した。1920年と21年には広範囲にわたる干ばつもあって飢饉となり、数100万人の餓死者が出た。
こうした状況を打開するため、対ソ干渉戦争で日本軍を除く各国軍が撤兵し、国内の反革命軍もほぼ鎮圧されると、レーニンは政策の転換をはかり、1921年3月の第10回党大会で新経済政策(ネップ)に関する提案を行って採択された。
新経済政策(New Economic Policyの頭文字を取ってNEP、ネップと呼ばれる)は、戦時共産主義によって極度に低下した生産を回復させるためにとられた経済政策で、穀物強制徴発制が廃止されて農民には余剰生産物の自由販売が認められ、また中小企業(小商店や小工場)の個人経営も認められた。しかし、土地はもちろん、銀行・大工業・外国貿易などの国家管理の原則は変わらなかった。
ネップは、一定の範囲内で資本主義的な営業を認めて人々の生産意欲を高めようとした政策で社会主義を放棄した政策ではなかった。
ネップの採用によって人々の生産意欲が高まり、生産は回復に向かったので、1927年までには各部門でほぼ戦前の水準を回復した。
しかし、その一方でネップマン(ネップ期におもに投機で富を蓄積した小所有者階級)やクラーク(富農)の出現など新しい問題が起こった。
ネップの発展のために先進資本主義国の技術援助を必要としたソヴィエト政権は資本主義国へ接近し、またヨーロッパ諸国もネップを資本主義への方向を目ざす政策と判断し、1922年にまずドイツがラパロ条約でソヴィエト政権を承認し、1924年にはイギリス・イタリア・フランスが、そして1925年には日本がソ連を承認した。
ラパロ条約は1922年4月にドイツとソヴィエト政権が結んだ条約で、両国は相互に賠償・債務を放棄し、外交関係の回復と経済関係の促進を約し、ドイツはソヴィエト政権を承認した。ヴェルサイユ体制に苦しむドイツと国際的に孤立していたソヴィエト政権が接近したことが背景にある。