1 第一次世界大戦とロシア革命

4 ソヴィエト政権の成立と干渉戦争

 十一月革命で成立した新政権(以下ソヴィエト政権と表記)は「平和に関する布告」で即時・無併合・無賠償の講和を全交戦国に呼びかけ、また「土地に関する布告」で地主の所有する土地の無償没収を含む土地の私有権の廃止を布告した(1917.11.8)。

 1917年11月には憲法制定議会選挙が行われたが(1917.11.25)、その結果は社会革命党が413議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは183議席を獲得したにとどまり、以下民族グループ86・立憲民主党17・メンシェヴィキ16・その他3であった。

 1918年1月18日、憲法制定議会が開かれ、冒頭でソヴィエト政権が提出した「勤労人民と被圧迫人民の権利の宣言」(後にソヴィエト=ロシア憲法の前文に挿入される)が賛成146・反対247で否決され、全ボリシェヴィキ議員が退場した。

 翌19日、人民委員会議(ソヴィエト政権)は憲法制定会議の解散を決定し、中央執行委員会に承認を求めた。中央執行委員会はこれを承認し、憲法制定議会を武力閉鎖し解散させた。これによってボリシェヴィキの一党独裁(プロレタリア独裁)が事実上実現した。

 ついで1月23日から開かれた第3回全ロシア=ソヴィエト会議で「勤労人民と被圧迫人民の権利の宣言」が可決され、正式の国号を「ロシア社会主義ソヴィエト共和国」と決定した。

 また1月末には赤軍(赤衛軍)創設の布告が出された。赤軍とはソヴィエト政権の軍隊のことで、十一月革命直後に労働者・兵士を中心に形成され、1918年1月からは義勇兵を中心に組織され、内外の反革命軍を破ってソヴィエト政権を守った。赤軍は、1918年から46年までソ連陸軍の正式名称として使用され、1946年にはソヴィエト軍と改称された。

 ソヴィエト政権は「平和に関する布告」に基づいて即時・無併合・無賠償の講和を全交戦国に呼びかけたが、連合国が応じなかったので、1917年12月からブレスト=リトフスクでドイツ・オーストリアと和平交渉を始めた。しかし、ドイツが無併合・無賠償・民族自決の三原則を全面的に拒否してポーランドとバルト海沿岸地方の割譲を要求したのでソヴィエト政権はこれを拒否した。

 ドイツは休戦協定を破棄して攻撃を再開し(1918.2)、たちまちバルト海沿岸・ウクライナを占領し、ペトログラードに迫る勢いを示した。

 1918年3月3日、ソヴィエト政権は屈辱的なブレスト=リトフスク条約を結び、ポーランド・バルト海沿岸地方・フィンランド・ウクライナの広大な地域(約320万平方km)を放棄し、さらにドイツに賠償金の支払いを約束した。しかし、ブレスト=リトフスク条約はドイツの敗戦によって無効となった。

  ブレスト=リトフスク条約によって第一次世界大戦から離脱したソヴィエト政権では、ボリシェヴィキが党名をロシア社会民主労働党からロシア共産党に改称し、首都をモスクワに移した(1918.3)。

 そして7月に開かれた第5回全ロシア=ソヴィエト会議はソヴィエト最初の憲法を採択し、全国にソヴィエトを設け、18歳以上の労働者・農民・兵士にソヴィエトの選挙権を与え男女同権を認めた。しかし、共産党以外の政党は禁止された。

 十一月革命後、ソヴィエト政権に反対する帝政派の軍人や社会革命党などが指導する反革命軍(赤軍に対して白軍(白衛軍)と呼ばれる)が各地で結成され、各地に政権を樹立した。

 また連合国の列強はソヴィエト政権が帝政時代の債務を放棄し、秘密外交文書を暴露(1917.12)したことに強い反感を持ち、ソヴィエト政権を打倒するために反革命軍を支援し、対ソ干渉戦争(1918.3〜22年末)に乗りだした。

 特に1918年5月、大戦中にロシア軍に投降した4万5000のチェコ兵が西部戦線に参加するためにシベリア鉄道で移動中に反乱を起こし、シベリア鉄道全線を占領して反革命軍を支持した。このチェコ兵救出が連合軍の大規模な干渉の口実となった。

 1918年8月以降、北ロシアのアルハンゲリスクからイギリス・アメリカ・フランス軍約1万5000が、そしてシベリアから日本・アメリカ・イギリス・フランス軍約2万5000がチェコ兵救出を旗印にロシアの内陸に向かって進撃した。シベリアに出兵した兵力の約半数が日本軍であり、日本は最盛期には7万5000の兵力を送り込んだ(シベリア出兵)。

 またロシア国内の反革命軍は連合国から大規模な軍事・経済援助を得て、1919年にはウラルに前線をおくコルチャック(ロシアの海軍少将)軍や南ロシアのデニーキン(ロシアの中将)軍が攻勢に出、デニーキン軍は一時はモスクワに迫ったがいずれも翌年には敗北した。

 対ソ干渉戦争と反革命によってソヴィエト政権は一時は危機に陥ったが、連合国各国の利害の対立・ソヴィエト民衆の抵抗・増強された赤軍の奮戦の前に、連合国軍は1920年夏までには日本軍を除いてほぼ撤兵した。日本軍だけが、1922年まで沿海州に、1925年まで北樺太に駐兵し、内外から非難された。

 この間、ソヴィエト政権は内外の危機に対応するために、1918年夏以降徴兵制をしいて赤軍を増強し、またチェカ(非常委員会)を設置し(1917.12)反革命陰謀の摘発・取り締まりを強化した。

 レーニンはソヴィエト政権を守るためには先進資本主義国での革命が必要だと考え、1919年3月にはモスクワでコミンテルン(第3インターナショナル)を結成した。

 コミンテルンは世界各国の革命政党・組織の指導機関で、各国の共産党を指導し、民族運動を援助した。コミンテルンの指導でハンガリー革命(1919)が起こり、ソヴィエト政権が樹立されたが5ヶ月で崩壊した。

 反革命軍を鎮圧し、対ソ干渉戦争からソヴィエト政権を守り抜いたロシア=ソヴィエト共和国は、1922年12月にウクライナ・白ロシア・ザカフカースの4つのソヴィエト共和国と連合してソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦、ソ連、U.S.S.R)を結成し、1924年1月にはソヴィエト社会主義憲法(1918年の最初の憲法に代わる憲法で、1936年のスターリン憲法まで続いた)を制定した。

 なおソヴィエト社会主義共和国連邦はその後拡大し、1991年に消滅するまで15のソヴィエト共和国・20の自治共和国・その他で構成されていた。




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