1 第一次世界大戦とロシア革命

3 ロシア革命

 ツァーリズム(専制政治)のもとで近代化が遅れていたロシアは1914年末には早くも軍需品の不足に陥った。

 1915年8月にはロシア領ポーランド全体がドイツ軍に占領され、ロシア軍は本国へ敗走した。その後東部戦線が膠着する中で、長期の塹壕生活を送る兵士たちの士気は衰え、兵士たちの間には厭戦気分が広まっていった。また1916年夏には、中央アジア諸民族の間で徴兵に反対する大蜂起が起こった。

 この間、多くの農民が兵士として大動員されたので農業生産が低下して食糧難が深刻となり、またその他の生活必需物資も不足して物価の値上がりが起こり、国民生活が窮乏するなかで労働者の間でも戦争の継続に批判的な空気が強まった。

 1917年3月8日(この日は1914年より国際婦人デーとされていた)、首都ペトログラード(大戦開始後ペテルブルクを改称した。1924年にはレニングラードとなり、1991年に現在のサンクト=ペテルブルクと改称された)では約8万人の労働者がストライキを行い、「パンをよこせ」・「戦争反対」のスローガンを掲げて大規模なデモを行った。

 翌9日、ストライキに参加する労働者の数は約15万人となり、デモのスローガンには「専制打倒」も現われた。10日にはストライキは全市をおおい、ストライキに参加する労働者の数は20万人を超えた。

 12日には、首都の軍隊の多くが革命側について政治犯を釈放し、政府の要人が続々と逮捕された。わずか一週間で首都は完全に労働者と反乱軍によって占拠された。

 こうした状況の中で、労働者・兵士は1905年の第一革命の例にならってソヴィエト(会議の意味、労働者と兵士の代表による評議会)を結成した。

 皇帝ニコライ2世(1868〜1918、位1894〜1917)は革命が起こったときには前線の大本営にいた。事態の深刻さを認識したニコライ2世は12日に軍に首都進撃の命令を下したが時すでに遅く、3月15日に退位の勧告を受け入れて弟のミハイルに譲位した。しかし、翌16日ミハイルは辞退し、ロマノフ朝(1613〜1917)は崩壊した。ニコライ2世は十一月革命後に監禁され、内戦中に家族とともに革命派によって処刑された。

 これが三月革命(ロシア暦二月革命)である。ロシアでは1918年までユリウス暦が使用されていた。これがロシア暦でグレゴリー暦より13日遅れていたので、三月革命はロシア暦では二月革命となる。

 三月革命によって、リヴォフ公を首相とし立憲民主党(カデット、ブルジョワ政党)を中心とする臨時政府が樹立された。臨時政府にはソヴィエトからはケレンスキーだけが入閣して法相となった。

 労働者・兵士が結集したソヴィエトは武力と首都の主要拠点を掌握していたが、当時のソヴィエトでは社会革命党とメンシェヴィキの勢力が強く、ボリシェヴィキは少数にとどまっていたので、臨時政府を支持して政府を監視する立場をとった。

 以後、臨時政府とソヴィエトという、いわゆる「二重権力(二重政権)」の状態が続く中で臨時政府は戦争を継続した。

 1917年4月16日、レーニンが帰国し、ただちに「四月テーゼ」を発表した。
 ボリシェヴィキの指導者レーニン(1870〜1924)は三月革命が起こったときにはスイスに亡命していた。革命の勃発を知ったレーニンはすぐに帰国しようとしたが、第一次世界大戦中で交戦国を通過しないと帰国できないため、ドイツの提供した「封印列車」で帰国した。

 ドイツは革命家をロシアに送り返すことによりロシアに革命が広がることを期待したが、彼らがドイツを通過するときに革命を宣伝することを恐れ、外部との接触を一切禁止する「封印列車」でレーニンらをロシアに運んだ。

 レーニンは帰国するとただちに「四月テーゼ」を発表し、戦争を継続する臨時政府を支持しないこと、そして議会制の共和国でなく全国的な全ての労働者・農業労働者・農民代表のソヴィエト共和国を樹立することを主張した。

 「四月テーゼ」は当初ボリシェヴィキ党内でも幹部らの反対を受けたが、下部では支持されてボリシェヴィキの基本方針となり、党は「全ての権力をソヴィエトへ」をスローガンに掲げた(1917.4)。

 レーニンの帰国・「四月テーゼ」の発表以後、ソヴィエト内ではボリシェヴィキの勢力が増大し、メンシェヴィキと社会革命党から6人が臨時政府に入閣した頃から(1917.5)ソヴィエト内ではボリシェヴィキとメンシェヴィキ・社会革命党との対立が強まった。

 7月16〜17日、ペトログラードで約40万人の労働者・兵士が「全ての権力をソヴィエトへ」をスローガンに掲げて武装デモを行ったが鎮圧された(七月事件)。政府はこの出来事を口実にボリシェヴィキを弾圧し、レーニンは再び亡命した。

 7月21日には社会革命党のケレンスキーが首相となった。ケレンスキーは三月革命によって成立した臨時政府にソヴィエトを代表して法相として入閣し、陸相を経て、7月に首相となった。

 ケレンスキー政権はボリシェヴィキを弾圧したが、9月にコルニーロフのクーデターが起こるとボリシェヴィキに援助を求めた。

 コルニーロフ(1870〜1918)はケレンスキー首相の下で最高司令官となったが、臨時政府打倒のクーデターを企てて首都に進撃した。しかし政府軍に敗北して逮捕された。

 このコルニーロフの反乱鎮圧に大きな役割を果たしたボリシェヴィキの勢力はこれを機に飛躍的に伸張し、ボリシェヴィキはソヴィエト内でも多数派となった。

 こうした状況の中で、10月20日、フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻り、23日に開かれた党中央委員会ではレーニンの主張する武装蜂起の方針が決定された。そして26日にはペトログラード=ソヴィエト内に軍事革命委員会が組織され、蜂起は11月6日に決行されることとなった。

 11月6日早朝、ケレンスキーは軍事革命委員会の委員の逮捕を命じ、蜂起を煽動したとの理由でボリシェヴィキの機関誌発行所を襲撃させた。

 これに対してボリシェヴィキは、レーニン・トロッキー(1879〜1940、当時ペトログラード=ソヴィエト議長)の指導のもとで武装蜂起し、この日の夜半までに駅・郵便局・電信局・国立銀行など首都の主要な拠点をほとんど抵抗を受けることなく占拠した。

 1917年11月7日午前10時、ペトログラード=ソヴィエト軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、同委員会が権力を掌握したと宣言した。

 同日午後9時、臨時政府の閣僚たちがこもる冬宮への攻撃が始まり、翌8日の午前2時にこれを占領し、ケレンスキーを除く全閣僚が逮捕された。ケレンスキーは脱出し、1918年以降はフランス・イギリスで亡命生活を送り、その後アメリカへ亡命し(1940)、ニューヨークで没した(1970)。

 冬宮を攻撃する砲声がとどろく中で、第2回全ロシア=ソヴィエト大会が開かれた。大会の代議員650名のうちボリシェヴィキは390名を占めていた。メンシェヴィキと社会革命党が武装蜂起を非難して退場する中で、新政権の成立が宣言され、「平和に関する布告」・「土地に関する布告」が採択された。

 そして人民委員会議(ソヴィエト政府)の議長(首相)にレーニンが、外務委員(外務大臣)にトロッキーが選出された。

 これが十一月革命(ロシア暦十月革命)である。三月革命と十一月革命を合わせてロシア革命と呼ぶが、史上最初の社会主義革命である十一月革命をロシア革命と呼ぶ場合も多い。




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