2 第一次世界大戦(その1)
1914年6月28日、陸軍大演習統監のためにボスニアのサライェヴォを訪れたオーストリア帝位継承者フランツ=フェルディナント(1864〜1914、オーストリア皇帝フランツ=ヨゼフ1世の甥)夫妻が大セルビア主義の秘密結社に属していたセルビアの青年プリンチップによって暗殺された。
セルビアと対立を深めていたオーストリアは、このサライェヴォ事件はプリンチップの単独犯行でなく背後でセルビア政府が関係しているとして、7月23日にセルビア政府に対して受諾できないような強硬な最後通牒を48時間の制限を付けてつきつけた。
セルビア政府は25日に一部保留の回答を出したが、オーストリアはこれを認めず、1914年7月28日にセルビアに対して宣戦を布告した。
7月30日、ロシアが全軍に総動員令を発すると、ドイツは8月1日にロシアに宣戦を布告し、翌2日に永世中立国のベルギーに領土通過を要求し、ベルギーがこれを拒否すると3日にはフランスに宣戦を布告し、4日にはベルギー侵入を開始した。
フランスも8月3日にドイツに宣戦を布告し、イギリスは8月4日にドイツのベルギー侵入を口実としてドイツに宣戦を布告した。
こうして、オーストリアがセルビアに最後通牒をつきつけてからわずか10日ほどの間にヨーロッパの主要な国々が戦争にまきこまれた。
ドイツは、陸軍参謀総長シュリーフェン(1833〜1913)がすでに1905年に立案していたシュリーフェン=プランに基づく作戦を展開した。
シュリーフェン=プランはロシア・フランスとの両面戦争を想定して立案された計画で、ロシアが大攻勢を開始できるまでには動員後6週間はかかるから、それまでに西部戦線に兵力の大部分を集中してフランス軍を包囲・壊滅させ、しかる後に主力を東に転じてロシア軍にあたるという計画であった。そしてフランスに攻め込むルートとして防備の手薄な中立国ベルギーを通過することもあらかじめ決められていた。
しかし、ベルギーに侵入したドイツ軍は頑強な抵抗にあい、ドイツ軍が立てた1日の予定は10日以上もくるい、短期決戦が不可能となった。
しかも、ロシア軍の動員はドイツの予想よりもはるかに早く、2週間後にはドイツ国境を越えてドイツ領に侵入してきた。
ドイツは、退役軍人のヒンデンブルク将軍(1847〜1934、戦後大統領となる)を起用し、重装備のロシア軍を湿地帯にさそいこみ、タンネンベルクの戦い(1914.8.26〜30)で包囲・壊滅させる大勝利をおさめた。
西部戦線では、ベルギーを突破したドイツ軍がフランス国境を越えてパリを目ざして進撃を続け、パリの東を流れるマルヌ川を越えてパリに迫った。
それまで撤退を続けていたフランス軍は、9月5日からイギリス軍とともにマルヌで反撃に転じ、11日にはドイツ軍はエーヌ川まで退却した。
このマルヌの戦い(1914.9)によってドイツの短期決戦を期したシュリーフェン=プランは挫折し、以後西部戦線は膠着状態に陥って長期戦となった。
この間、8月23日には日本が日英同盟を名目にドイツに宣戦を布告し、中国及び太平洋のドイツ領を攻撃し、青島を占領し(1914.11)、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した(1914.10)。また艦隊を地中海に派遣したが、陸軍のヨーロッパ戦線への派遣要求は拒否し続けた。
1914年11月、トルコは同盟国側について参戦し、翌1915年10月にはブルガリアも同盟国側について参戦した。これによって同盟国側はドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアの4カ国となった。
これに対して連合国側は、イギリス・フランス・ロシアを主力にセルビア・日本(1914年に参戦)・イタリア(1915年に参戦)・ルーマニア(1916年に参戦)・アメリカ・中国(1917年に参戦)など計27カ国であった。
「回復されざるイタリア」をめぐってオーストリアと対立していたイタリアは仏伊協商(1902)によって当初中立を保ったが、ロンドン秘密条約(1915.4)によって連合国側に立って参戦する見返りとして「回復されざるイタリア」・アドリア海沿岸地域を割譲するとの約束を得て、三国同盟を離れて連合国側に立って参戦した。
戦争が長期化する中でイギリスを中心とする秘密外交が積極的に展開され、ロンドン秘密条約を初めとして戦後の領土の分配に関する多くの秘密条約が結ばれた。
1915年10月には、エジプト駐在のイギリス高等弁務官マクマホンがアラブの指導者フセイン(フサイン、ヒジャーズ王国初代国王)に戦争協力を条件にアラブ人居住区の独占と独立を認めると通告した(フセイン=マクマホン(フサイン=マクマホン)協定)。
その一方で、イギリス・フランス・ロシアは1916年5月にサイクス=ピコ協定(サイクスはイギリスの、ピコはフランスの代表者名)を結んで中近東地域のトルコ領を3国で分割することを約したのでアラブは憤激した。
さらに1917年11月には、イギリス外相バルフォア(1848〜1930)がユダヤ系金融資本の協力を得るためにシオニズム運動を支持し、ユダヤ人のパレスチナにおける国家建設を約束するバルフォア宣言を発表した。
フセイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定・バルフォア宣言の3つの内容はそれぞれ矛盾するものであったので、戦後パレスチナをめぐってユダヤ人とアラブ人の対立が激化し、パレスチナ問題を引き起こすこととなった。
第一次世界大戦は交戦国が予想もしなかったような長期戦となった。
長期・消耗戦を心配したドイツは、膠着状態に陥った西部戦線での戦局打開をはかるため、1916年2月から12月にかけてヴェルダン要塞に猛攻を加えた。
これに対してフランス軍はペタン将軍の指揮下でこれを死守した。ヴェルダンの戦いでの死傷者はドイツ軍約34万、フランス軍約36万を数え、第一次世界大戦中の最大の激戦となった。
ヴェルダンの危機を脱した連合国は北フランスのソンム河畔でドイツ軍に対して西部戦線での最初の大規模な反撃に出た(ソンムの戦い、1916.6〜16.11)。連合国はドイツ軍に総攻撃をかけたが勝敗は決せず、連合軍75万・ドイツ軍50万の死傷者を出し、戦況はまた対峙状態にもどった。またこのソンムの戦いでイギリス軍が初めて戦車を使用した。
ドイツは、開戦当初から海軍力においてイギリスに対して劣勢であり、その主力艦隊はイギリス艦隊に封鎖されて北海に進出することが出来なかった。
ドイツ海軍はドッガー=バンク沖の海戦(1915.1)でイギリス海軍によって大打撃を受けた。また1916年5〜6月のユトランド沖の海戦では双方ともに決定的な勝敗を決するに至らず、両国艦隊が同様の損害をこうむったので相対的にドイツ海軍は劣勢となり、ドイツは海外植民地との連絡も断たれて物資の補給が期待できなくなり、食糧をはじめとする国民生活は極度に苦しくなっていった。