1 国際対立の激化
1890年、ドイツでビスマルクが引退すると、ヴィルヘルム2世(位1888〜1918)はロシアとの再保障条約の更新を拒否した。
そのため、ドイツから離れたロシアはビスマルク外交によって孤立していたフランスに接近して露仏同盟(1891〜94年に成立)を結んだ。
露仏同盟の成立によって、ビスマルクが最も恐れていたドイツが東西からロシア・フランスにはさまれる状況が現出した。
ドイツは露仏同盟の成立後ロシアの東アジア進出を支持し、自らはバルカンから西アジアへの進出をはかり、3B政策を推し進めた。
3B政策はベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium)・バグダード(Bagdad)を結ぼうとするドイツの西アジアへの進出をはかる帝国主義政策の代名詞で、主要3都市の頭文字をとってこう呼ばれている。
ドイツは、1899年にトルコからバグダード鉄道(トルコのコニアからバグダードを経てペルシア湾に至る予定線)の敷設権を獲得し、1903年にはバグダード鉄道会社を設立し、3B政策の中心として建設を進めた。バグダード鉄道は1918年までに3分の2が完成し、この間トルコにおけるドイツの勢力が著しく強まった。
なおバグダード鉄道は、広義には19世紀末以来のドイツ資本による近東での鉄道事業の総称としても使われる。
ドイツの3B政策はイギリスの3C政策を脅かすこととなり、また両国の激しい建艦競争も相まってイギリスとドイツの対立は強まった。
イギリスは20世紀の初頭まで「光栄ある孤立」を誇ってきたが、ロシアの東アジア進出に対抗するために「光栄ある孤立」を捨てて1902年に日英同盟を結んだ。
1904年に日露戦争が始まると、日本の同盟国であるイギリスとロシアに同盟国であるフランスは日露戦争に巻き込まれることを避け、ドイツに対抗するために1904年に英仏協商を結んだ。
イギリスとフランスは英仏協商によって、エジプトにおけるイギリスの、モロッコにおけるフランスの優越権を相互に承認して長年にわたる植民地をめぐる対立を調整した。
なお協商とはゆるい国家間の協力提携の関係をいう。
日露戦争で東アジアでの南下政策を阻止されたロシアは再びバルカンへの進出をはかってドイツ・オーストリアと衝突するようになった。
そのためロシアは、1907年にイギリスと勢力範囲を協定して英露協商を結んだ。英露協商ではイランの北半分をロシアの、イランの南東部をイギリスの勢力範囲として分割し、ロシアはアフガニスタンにおけるイギリスの優越権を認め、またチベットについては中国の主権を認めて相互内政不干渉を協定した。
この英露協商の成立によって、従来の露仏同盟・英仏協商と合わせて、イギリス・フランス・ロシアの間に三国協商と呼ばれる協力関係が成立し、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア間の軍事同盟)と対立することとなった。
イタリアは統一後北アフリカのチュニス進出をねらったが、フランスがチュニスを保護国とすると(1881)、ドイツ・オーストリアへの接近をはかり、1882年に三国同盟を結んだ。
しかし、イタリアは「未回収のイタリア」(イタリアは1870年以後もオーストリア領にとどまったイタリア人居住地域のトリエステ・南チロルを未回収のイタリアと呼んでその併合を要求し続けた)をめぐってオーストリアと対立した。
そのため、イタリアはその後フランスに接近し、トリポリにおけるイタリアの、モロッコにおけるフランスの優越権を相互に認めて1902年に仏伊協商を結んだ。
領内に多くのスラヴ系民族をかかえていたオーストリアはパン=スラヴ主義(スラヴ民族の独立・団結を主張する立場)の影響を恐れ、3B政策を推し進めているドイツと結んでパン=ゲルマン主義(ゲルマン民族や国家の団結を主張する立場)を唱えてバルカンへの勢力拡大をねらった。
1908年にオスマン=トルコで青年トルコの革命が起こると、この混乱に乗じてブルガリア(スラヴ系国家)はトルコからの独立を宣言し(1908.10)、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合した。
ボスニア=ヘルツェゴヴィナはスラヴ系住民が多く、パン=スラヴ主義の先頭に立ったセルビアがかねてより併合をねらっていたので、セルビアはオーストリアに対して激しい敵意を抱き、また再びバルカンへの進出をはかるロシアとオーストリアの間にも緊張が高まった。
ロシアは、1912年にセルビア・ギリシア・ブルガリア・モンテネグロの4カ国の間でバルカン同盟を結成させ、これを指導下においた。
バルカン同盟4カ国は、イタリアがトリポリ・キレナイカを奪おうとしてイタリア=トルコ戦争(伊土戦争、1911〜12)を起こすと、これに乗じてトルコに宣戦した(第1次バルカン戦争、1912.10〜13.5)。
トルコはただちにイタリアとの戦争を終わらせてバルカン同盟4カ国と戦ったが敗れ、イスタンブルを除くバルカン半島に残されていたトルコ領の大部分とクレタ島をバルカン同盟4カ国に割譲した。
しかし戦後、領土分割問題からブルガリアとセルビアが対立し、ブルガリアがセルビア・ギリシアを攻撃して第2次バルカン戦争(1913.6〜13.8)が始まった。
セルビア・ギリシア側にはモンテネグロの他にルーマニア・トルコも参戦したので、ブルガリアは大敗し、ルーマニア・セルビア・ギリシアそしてトルコにも領土を割譲した。
そのためブルガリアは以後ドイツ・オーストリアに接近するようになった。
バルカン戦争によって勢力を伸ばしたセルビアとそれに反発するオーストリアの対立が激化し、それにともなってパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義が激しく対立したのでバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになった。