8 西アジアの民族運動と立憲運動
オスマン=トルコでは、1876年に最初の憲法であるミドハト憲法が制定されたが、アブデュル=ハミト2世(位1876〜1909)は露土戦争(1877〜78)の勃発を口実に、1878年にミドハト憲法を停止して専制政治を復活した。
これを不満とする人々は専制の打倒とミドハト憲法の復活を求めて青年トルコ(党)(正式名称は統一と進歩委員会)を結成した(1889年頃)。
青年トルコはアブデュル=ハミト2世の弾圧にもかかわらず次第に勢力を固めて成長し、ロシア第一革命(1905)や日露戦争における日本の勝利に刺激され、1908年にサロニカ(現ギリシア)でマケドニア軍団の青年将校を先頭に反乱を起こし、スルタンにミドハト憲法の復活を宣言させた(1908.7)。これが青年トルコ革命(サロニカ革命)である。
翌年、保守派による反革命が起きると、青年トルコはイスタンブルに進撃して首都を制圧し(1909.4)、アブデュル=ハミト2世を退位させて政権を握った。
青年トルコ政権(第一次世界大戦末まで続いた)はトルコの近代化を促進する一方でパン=トルコ主義を唱え、国内の非トルコ系及び非ムスリム諸民族を抑圧するようになった。
ヨーロッパ列強への従属を深めつつあったカジャール朝(1796〜1925)のイランでも民族的自覚が高まり、アフガーニーの影響を受けてタバコ=ボイコット運動が起こった。
アフガーニー(1838/39〜97)はアフガニスタン(またはイラン)生まれのイスラム思想家でパン=イスラム主義(イスラム世界の団結・統一を目ざす思想や運動)を唱えて西アジア各地を歴遊し、エジプトのアラービー=パシャの運動やイランのタバコ=ボイコット運動、またトルコのアブデュル=ハミト2世のパン=イスラム主義に大きな影響を及ぼした。
アフガーニーがイランを追放された(1890)ことがきっかけとなってタバコ=ボイコット運動が起こった。
カジャール朝政府がイギリス商人にイラン全土でのタバコの原料の買い付け・加工・販売に関する独占的な利権を譲渡すると、商人やウラマー(イスラム教の神学・法学に精通している人)が中心となって激しい反対運動を展開し、翌年利権を破棄させた。
このタバコ=ボイコット運動はイラン民族運動の出発点となり、20世紀初頭の立憲運動へと発展していった。
イランでは、19世紀末から20世紀初めにかけて、国民の間に専制政治とイギリス・ロシアの軍事的・経済的侵略に対する不満が高まり、20世紀初頭にイラン立憲革命(1905〜11)が起こった。
1906年にはウラマーに指導された民衆の蜂起が起こり、国王はこの圧力に屈して議会と憲法を認めた。
しかし、翌1907年にイギリスとロシアは英露協商を結び、イギリスがイランの東南部を、ロシアがイランの北半分をそれぞれ勢力範囲とすることを協定した。
1911年、イギリスとロシアによる軍事干渉によって議会は閉鎖に追い込まれ、イラン立憲革命は挫折した。