6 インドの民族運動
インド帝国の成立(1877)後、イギリスはインドで帝国主義的な植民地政策を推し進め、茶のプランテーションや鉄道建設へ資本を投下してインドの富を吸い上げた。
その頃、インドではイギリスの植民地支配の下で育った官吏・弁護士・医師・教師・ジャーナリストなどの知識人層が増加し、彼らの間に自由主義・民主主義などの近代ヨーロッパ思想が普及するとイギリスの統治に対する政治的な批判も現われるようになった。
そこでイギリスは、インド人の不満をそらせ、対英協調をはかるために第1回インド国民会議をボンベイで開催した。国民会議に集まったのはヒンドゥー教徒を中心として、イギリスに協調的な知識人や地主・商人らであった。国民会議は、以後毎年、会場を全国各地の都市に移して開催されたが、当初は穏健であった。
しかし、国民会議は19世紀末までには多くの政治組織や指導者を吸収し、次第に反英的な性格を強めていった。
20世紀初頭、日露戦争における日本の勝利に刺激され、国民会議派(国民会議に召集された人々の政治結社、独立以後インド連邦の与党として長期にわたって政権の座にあったが、1996年の総選挙で大敗北して政権を失った)を中心としたインドの民族運動は急進化し、特にベンガル地方の知識人や民衆がその先頭に立った。
こうした状況の中で、インド総督のカーゾン(1859〜1925)は、1905年にベンガル分割令を発布した。
ベンガル分割令は、ベンガル州の面積・人口が大きすぎて行政上不便であることを理由に、ベンガル州をヒンドゥー教徒の多い西と、イスラム教徒が多い東の2州に分割するという法令であった。
しかし、この法令はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を利用してベンガルの民族運動を分断し、その発展を阻止しようとするねらいが明かであったので、反英闘争が激化する原因となり、ティラクら民族運動の指導者は国民会議派を通して幅広い反対運動を展開した。
ティラク(1856〜1920)は、大学卒業後、新聞を創刊して反帝国・反英の思想を鼓吹した。彼はベンガル分割令が発布されると、国民会議派内の急進派の指導者としてベンガル分割令反対闘争(1905〜08)を指導した。
1906年、ティラクらを中心としてカルカッタで開かれた国民会議派の大会では、英貨排斥(イギリス商品のボイコット)・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・民族教育の4大綱領が採択された。そしてスワデーシ・スワラージは以後のインド民族運動のスローガンとなった。
これに対してイギリスは、1906年に親英的な全インド=ムスリム連盟の結成を支援し、ヒンドゥー教徒の国民会議派との分断を図った。
またイギリスは、国民会議派の中の急進派に弾圧を強める一方で穏健派には譲歩をちらつかせて民族運動の分裂を図った。そのため国民会議派は1907年の大会で急進派と穏健派に分裂し、急進派のティラクは逮捕・投獄された(1908〜14)。
イギリスはインドの民族運動に弾圧を加える一方でインド人の懐柔を図り、ヨーロッパでバルカン情勢が緊迫すると、1911年に王位に就いたばかりのジョージ5世(位1910〜1936)が、インド皇帝としては初めてインドを訪れ、ベンガル分割令の取り消しを宣言した。