5 辛亥革命と中華民国の成立(その2)
武昌で革命が起こると(1911.10)、清朝はこれを鎮圧するために当時隠退していた袁世凱を起用しようとした。
袁世凱(1859〜1916)は河南省出身で、科挙試験に落ちると、呉長慶(李鴻章系の重要人物)の幕僚となり、呉長慶が朝鮮に派遣されると彼も朝鮮に同行し、壬午の変(1882)・甲申の変(1884)で軍功をあげて李鴻章の信任を得た。そして日清戦争後、新軍(洋式軍隊)の建設にあたり、実力者にのし上がった。
戊戌の変法(1898)を裏切って西太后の信任を得て山東巡撫となり、義和団事件が起こるとこれを弾圧する一方で自分の軍隊の温存に努めた。そして李鴻章が没すると、その後を継いで直隷総督兼北洋大臣となり(1901)、さらに軍機大臣にまでなったが(1907)、その翌年満州貴族に警戒されて罷免された。
しかし、辛亥革命が起こると清朝は袁世凱を再び起用し、彼を総理大臣に任命して軍・政の全権を与えた。
袁世凱は、革命派に戦争を継続する力がないのをみて革命派と取引きし、清の皇帝を退位させることを条件に臨時大総統になることを承諾させた。
孫文ら革命派も、中華民国を建国したものの、武力も財力も乏しく、袁世凱の軍に勝つ自信もなかったので、民主共和国を守るために袁世凱の取引に応じ、清の皇帝を退位させることを条件に、袁世凱に臨時大総統の地位を譲ることを密約した(孫袁密約)。
袁世凱は密約に従って、あくまで帝政を主張する満州人貴族を威圧し、皇帝の称号を廃しないで紫禁城に住むことを条件に宣統帝溥儀を退位させた。
1912年2月12日、宣統帝溥儀(ふぎ、位1908〜12、醇親王(光緒帝の弟)の長子で2歳で即位した、後に満州国皇帝となる)は退位し、太祖ヌルハチ以来12代297年間続いた清(1616〜1912)はついに滅亡した。
同年3月、袁世凱は臨時大総統に就任し、アジアで最も民主的といわれた臨時約法(仮憲法)を公布した。
袁世凱が臨時大総統に就任し、御用政党である共和党を結成すると(1912.5)、中国同盟会は共和党に対抗するために、他の4党と合併して国民党と改称した。
国民党は宋教仁(1882〜1913)を事実上の党首として、1913年2月の総選挙で圧勝した。そのため袁世凱の弾圧を受け、宋教仁は暗殺された(1913.3)。
袁世凱の専制と国民党弾圧に対して、江西の李烈鈞(1882〜1946)らが討袁の兵を挙げたが袁世凱に鎮圧された(第二革命、1913.7)。
1913年10月、袁世凱は正式大総統に就任し、11月には国民党を解散させ、翌1914年には国会を停止し、大総統の権限を大幅に強化した新約法を公布した(1914.5)。
この頃、孫文は東京で中華革命党を結成し、第二革命失敗後の革命勢力の再建を目ざした(1914.7)。
1914年に始まった第一次世界大戦は中国をめぐる国際関係を一変させた。イギリス・フランス・ドイツ・ロシアの各国はヨーロッパ戦線に全力を注いでアジアをかえりみる余裕がなかった。この間に中国への独占的進出をはかった日本は、1915年1月に二十一カ条の要求をつきつけた。袁世凱は初めこの要求を拒否したが、結局日本の武力に屈して5月には要求の大部分を受け入れた。
その一方で国内で独裁権を強化した袁世凱は、1915年8月頃から帝政運動を展開し、12月には国会に工作して皇帝推薦を決議させ、即位を受諾して翌1916年1月1日に皇帝即位式を行うことを決めた。
しかし、この帝政計画に対しては内外から激しい反対が起こり、雲南の唐継堯らは帝政に反対して雲南の独立を宣言して討袁軍を起こした。この第三革命(1915.12)は各地に波及し、また日本をはじめとする列強も帝政に反対した。
内外から激しい反発を受けた袁世凱は、1916年3月に帝政計画を取り消し、まもなく失意のうちに病死した(1916.6)。
袁世凱の死後、地方では列強の援助を受けた軍閥(軍人の私的集団で、私兵を擁して特定地域を支配した)諸勢力が北京をはじめ各地に分立して相互に抗争を続けたので、以後10数年にわたって不安定な軍閥抗争時代が続いた。