3 アジア諸国の変革と民族運動

4 日本の韓国併合

 日露開戦から半月後に日韓議定書(1904.2)が調印され、日本は韓国での軍事行動の自由を獲得した。そして以後3次にわたる日韓協約(1904、1905、1907)を結んで韓国への干渉を強めていった。

 1904年8月には第一次日韓協約を結び、日本政府が推薦する者を財政・外交の顧問とすることを強制した。

 さらに日露戦争後の1905年11月には第二次日韓協約(大韓側では乙巳(ウルサ)保護条約と呼ばれる)を強制し、韓国の外交権を奪い、統監府を設置して外交の監督にあたらせることとした。そして初代統監には伊藤博文が就任した。

 韓国は日本の保護国となり、独立国としての地位を失うことになったので、この乙巳保護条約に対しては激しい抗議行動が起こった。そしてこの条約に反対の立場を貫けなかった5人の閣僚を売国奴と決めつけ、乙巳五賊と呼んで憎んだ。

 高宗は、こうした韓国の窮状を国際社会に訴えようとし、1907年6月オランダのハーグで開かれた第二回万国平和会議に密かに使節を派遣した。しかし、使節団の会議への正式参加は認められず、このハーグ密使事件(1907.6)は失敗に終わった。

 統監府は、ハーグ密使事件に対する高宗の責任を追及し、高宗に譲位を迫って退位させた(1907.7.19)。高宗に代わって純宗(高宗と閔妃の子、李朝第27代国王、位1907〜10)が大韓帝国第2代皇帝となった。

 譲位式から4日後、第3次日韓協約(1907.7.24)が調印され、法令の制定・重要な行政上の処分・高等官吏の任免は統監の指導・承認をうけること、統監の推薦する日本人を大韓国官吏に任命することなどが定められた。

 そして8月1日には韓国軍隊の解散を断行したが、これをきっかけとして各地で反日義兵闘争が激化した。反日義兵闘争は閔妃暗殺事件後の1896年に起こり、1905年の第二次日韓協約による保護国化に対して再び起こった。特に1907年の韓国軍の解散によって激化した。

 朝鮮では国家の危機に際して自発的に立ち上がった人々を義兵と呼んだ。韓国軍解散後の義兵闘争には旧韓国軍将兵だけでなく、儒学者・民間人も義兵となり、武装して郡庁・警察署・郵便局などや日本人の住居を襲った。

 日本軍は強力な討伐軍を各地に派遣して鎮圧に当たり、1910年までの3年間に約1万7000人を殺害し、約2100人を捕らえて処刑した。

 愛国者であり義兵の一人であった安重根(1879〜1910)は、1909年10月に前統監伊藤博文を朝鮮亡国の元凶としてハルビン駅で暗殺した。安重根はその場で捕らえられ、旅順の監獄に送られ、翌年裁判で死刑の宣告を受けて処刑された。

 1910年6月には、日本は韓国の警察事務の一切を日本政府に委託させて警察権を奪い、8月に併合条約を押しつけた。

 1910年8月22日、日韓併合条約が調印され、朝鮮はついに日本の完全な植民地とされた。日本は、併合後の朝鮮統治機関として京城(ソウル)に朝鮮総督府を設置した。朝鮮総督府は天皇に直属し、軍事・行政のすべてを統轄し、初代総督には寺内正毅(1852〜1919)が就任した。

 以後、1945年8月15日まで、いわゆる日帝36年と呼ばれる植民地支配が続いた。




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