3 日露戦争
日本が三国干渉に屈服して遼東半島を清に返還すると、閔妃らは大国ロシアに接近して日本を牽制しようとし、親日派を追放した(1895.7)。
日本公使の三浦梧楼らはソウルの日本守備隊長らと共謀して守備隊・警察・民間人を王宮に乱入させ、閔妃を暗殺した(1895.10)。この出来事については角田房子氏の『閔妃暗殺』(新潮社)という優れた著作があるのでぜひ読んでもらいたい。
翌1896年2月、高宗はロシア公使館に逃げ込み、以後約1年間にわたってそこで政務を執ったので、朝鮮ではロシアの勢力が急速に増大し、親日派の勢力は弱まった。
1897年10月、高宗は国号を大韓帝国と改称し、自らの称号も国王から皇帝に変え、近代化のための諸改革に取り組んだ。
ロシアは、義和団事件が起こると満州(中国東北地方)に大軍を送り込み、1900年10月頃までにはほぼ満州全域を占領した。そして事件後も東清鉄道の保護を口実に満州占領を続け、朝鮮への圧力を強めたので、朝鮮をめぐる日本とロシアの対立が激化した。
こうした状況の中で日本は、極東でのロシア進出を脅威とするイギリスと1902年1月に日英同盟を結んだ。
日英同盟は、第一にイギリスが清国において有する利益と日本が清国と韓国において有する利益が他の国から侵略されたり・騒動が起きた場合は両国はその利益を守るために適当な行動をとることを認めること、第二にそのために第三国と戦争になった時には締約国は厳正中立を保つこと、そして第三に他の国が相手国と同盟して戦争する場合には締約国も協同して戦闘に当たることなどが約され、有効期間は5年とされた。日英同盟はその後1905年と1911年に改訂され、1921年に破棄された。
日英同盟は、それまで「光栄ある孤立」を守ってきたイギリスが初めて結んだ条約であった。
ロシアは、満州からの撤兵を約束しながら撤兵せず、逆に南満州への軍隊を増強した。日露交渉(1903.10以後)が行きづまる中で、1904年2月に日露戦争が始まった。
日露戦争は、朝鮮と満州(中国東北地方)の支配をめぐる日本とロシアとの極東における戦争であったが、日本をイギリス・アメリカが、ロシアをフランス・ドイツがそれぞれ支援する、まさに列強の利害がからんだ国際的な帝国主義戦争であった。
ロシアは、同盟国フランス(露仏同盟は1891〜94年に成立)の援助を得、バルカン方面への進出をねらっていたドイツもロシアの極東進出を期待してその対日戦を支持した。
一方日本とイギリスは同盟国であり、中国市場への進出をねらうアメリカはロシアの満州占領を不快として日本に好意的な態度をとった。
日本にとって莫大な戦費がまかなえるかどうかが深刻な問題であった。当時の日本の財政力からみて外債に頼るしかなく、しかも外債をイギリスとアメリカに頼るしかなかった。 日本は日露戦争の戦費17億1600万円のうち8億円をイギリスとアメリカで募集した外債でまかなった。
1904年2月6日、日本はロシアに対して国交断絶を通告し、2月8日〜9日に仁川沖と旅順でロシア艦隊を攻撃し、2月10日にロシアに宣戦を布告し、日露戦争(1904.2〜1905.9)が始まった。
日本は、戦争遂行に必要な兵員・武器弾薬・食糧などを朝鮮・満州へ運ぶには対馬海峡・日本海・黄海の制海権を握ることが不可欠だったので、旅順のロシア艦隊を旅順港内へ閉じこめるために、旅順口閉塞作戦(1904.2〜04.3)を行ったが成功しなかった。
陸軍は、5月には第一軍が鴨緑江を渡り、第二軍は遼東半島に上陸し、南満州へ進出した。
乃木希典(のぎまれすけ、1849〜1911)の率いる第三軍は難攻不落を誇る旅順要塞を攻撃した。しかしロシア軍の強固な陣地と機関銃のために第1回の総攻撃(1904.8)で1万6千人の死傷者を出し、3回にわたる総攻撃では4万人を越える死傷者を出した。そのため作戦を203高地攻撃に変更し、12月にこれを占領し、28サンチ砲で旅順港内のロシア艦隊を砲撃し、その大半を撃沈した。
1905年1月、ロシア司令官ステッセルは降伏し、旅順が陥落した。
この間、陸軍は遼陽会戦(1904.8)・沙河会戦(1904.10)・黒溝台の戦い(1905.1)でも多くの死傷者を出しながら、奉天(現在の瀋陽)へ迫った。
1905年3月の奉天会戦では、日本軍約25万とロシア軍約31万が10余日にわたって激闘をくり返した。日本軍は約7万人の死傷者を出したが、ロシア軍も10万人以上の死傷者を出して退却し、日本軍は奉天を占領した。
奉天会戦では日本軍は勝利をおさめたが、砲弾を使い果たし、これ以上ロシア軍を追撃する余力は残っていなかった。日本の国力・兵力は限界に達しつつあった。
この間、ロシアは旅順港が封鎖されて制海権が奪われると、バルチック艦隊を日本に派遣し、制海権を奪い返して日本軍に打撃を与えようとした。
バルチック艦隊は、1904年10月にリバウ港から1万8000海里の大航海に出発した。各地で石炭の補給をしながら、南アフリカの南端を回り、インド洋を東進し、1905年4月にはフランス領インドシナ(ヴェトナム)のカムラン湾に達した。そして5月には北上を開始した。
バルチック艦隊がウラジヴォストークに入るのに、対馬コースをとるか、太平洋回りのコースをとるかが重大な問題であったが、東郷平八郎(1847〜1934)連合艦隊司令官は対馬海峡説をとり、艦隊をここに集結させていた。
1905年5月27日、連合艦隊の旗艦三笠に「皇国の興廃、この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」という信号が掲げられ、午後2時頃から日本海海戦が始まった。
ロシア艦隊は38隻(戦艦8隻・巡洋艦11隻)からなり、戦艦の数と9インチ以上の巨砲の数では日本艦隊より勝っていた。これに対して50隻(戦艦4隻・巡洋艦23隻)からなる日本艦隊は、巡洋艦の数と8インチ以上の速射砲の数で勝っていた。
日本海海戦は、翌28日、砲術能力(命中率)に勝った日本艦隊の圧勝で終わった。ロシア艦隊38隻中、20隻が撃沈され、5隻が捕獲され、逃亡に成功したのはわずか2隻であった。これに対して日本艦隊は水雷艇3隻を失っただけであった。
日本は奉天会戦と日本海海戦に勝利をおさめ、戦局を有利に展開したが、軍事的・経済的には限界に近づいていた。一方ロシアも、1905年1月に起こった「血の日曜日事件」をきっかけとする第一革命の勃発によって戦争継続が困難となっていた。このため両国はアメリカ大統領セオドア=ローズベルトの調停を受け入れ、講和交渉に入った。
1905年8月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、日本全権の小村寿太郎(1855〜1911)とロシア全権ヴィッテが交渉に入ったが、ロシアが威信にかけて領土の割譲と賠償金の支払いを拒否したので会議は難航し、決裂寸前までいったが、日本が賠償金の支払い要求を撤回したので、ロシアも南樺太を割譲することで決着し、1905年9月ポーツマス条約が成立した。
ポーツマス条約では、ロシアは日本の朝鮮における優越権を認める、ロシアは日本に遼東半島の租借権と東清鉄道支線(南満州鉄道)の利権を割譲する、ロシアは日本に北緯50度以南の樺太(南樺太)を割譲し、沿海州の漁業権を認めることなどが約された。
しかし、日本国内ではポーツマス条約を屈辱的とする声が強く、日比谷焼打ち事件(1905.9)などが起こった。
国際的な帝国主義戦争であった日露戦争の結果は以後の世界の歴史に大きな影響を及ぼした。
ポーツマス条約でロシアに朝鮮における優越権を認めさせた日本は、以後韓国への干渉を強め、1910年には韓国を併合した。
日露戦争に敗れたロシアは、極東での南下政策を断念し、再びバルカンへの進出を強めてドイツ・オーストリアと衝突するようになった。
そのためロシアは、1907年に日露協約を結び、両国が中国から得た利権の相互尊重を約し、秘密条項で日本の朝鮮における、ロシアの外モンゴルにおける特殊権益の尊重・勢力範囲などを協定した。
またロシアは、ドイツに対抗するために、同年イギリスと英露協商を結び、イラン・アフガニスタン・チベットにおける両国の勢力範囲を協定した。
アメリカは、日露協約・英露協商の成立によって極東で孤立するようになり、満州の権益をめぐって日本との対立が強まると、国内では日本移民排斥が激化していった。
アジアの一国である日本がヨーロッパの大国ロシアに対して勝利したことは、欧米列強の支配下で苦しんでいたアジアのすべての国々に大きな影響を及ぼした。また有色人種の国家日本が白人の大国ロシアに勝ったことはアジアの人々に大きな励ましとなり、アジアの人々の民族的自覚を高め、中国・ヴェトナム・インド・イラン・トルコなどの民族運動に大きな影響を与えた。
なお日露戦争については、司馬遼太郎氏の名作『坂の上の雲(全8巻)』(文芸春秋社)がある。この作品はぜひ読んでほしい。