3 アジア諸国の変革と民族運動

2 変法運動と義和団事件

 日清戦争の敗北は中国の知識人(士大夫)層に深刻な衝撃を与えた。下関条約調印の報が伝わると、折から会試(科挙の第2段階)のために北京に集まっていた挙人(郷試に合格して会試を受ける資格の出来た者)1200余人が康有為の呼びかけに応じて連名で「条約を拒否し、政治制度の改革を行って屈辱から抜けだそう」という上書を清朝に提出した(1895.4)。

 この出来事の中心人物であった康有為(1858〜1927)は、広東省の名門に生まれ、初め儒学や仏教学を学ぶ一方で欧米思想にも接して西洋に関する書物を広く読み、のち公羊学(くようがく、孔子を革命主義者としてとらえ、政治的実践を尊ぶ学説)に転じて変法運動を提唱し、1888年には光緒帝に上書し、科挙合格後(1895)もしばしば上書した。

 変法運動(変法自強)は、洋務運動が西洋の軍事技術の導入を中心として政治の改革に至らなかったことを批判し、その反省から日本の明治維新を手本にして国会を開き憲法を制定して立憲君主制を樹立するという政治改革(変法)を主張する運動である。

 変法運動が広まっていく中で、革新的な若い知識人たちは各地に結社(学会)をつくり、新聞や学校を通じて啓蒙運動を行った。特に梁啓超(1873〜1929)は科挙に失敗した後、康有為に師事し、上海で新聞を発行して変法自強の論をひろめ(1896)、また翻訳を通じてヨーロッパの学芸の紹介に努めた。

 康有為のたびたびの上書は若い光緒帝(位1874〜1908)の心をつかみ、光緒帝を動かした。1898年6月、光緒帝は変法の詔書を発布し、康有為・梁啓超・譚嗣同(たんしどう、1865〜98)ら変法派を登用し、戊戌(ぼじゅつ)の変法(1898.6〜98.9)を開始した。

 科挙の改革、近代的な学校の建設、農工商業の振興、新式陸軍の建設、官庁の整理などの詔勅が次々に発布された。しかし中央・地方の守旧派官僚の非協力などのために改革はほとんど実現されなかった。

 改革に反対する保守派は西太后を動かして変法派の弾圧をはかった。

 西太后(1835〜1908)は、清朝末期の咸豊帝(かんぽうてい、位1850〜61)の妃で同治帝(位1861〜74)の生母である。満州旗人(八旗に所属し、各種の特権と土地を与えられた満州人貴族)の出身で、18歳で咸豊帝の側室となり、同治帝を生み、同治帝が5歳で即位すると咸豊帝の皇后(東太后)とともに摂政となり、西太后と呼ばれるようになった。

 西太后は、嗣子のない同治帝が没すると(死因は天然痘とされているが西太后によって毒殺されたとも言われている)自分の妹の子でわずか3歳の光緒帝を強引に擁立して自ら摂政となり、東太后の急死(1881、西太后が関係していると言われている)以後は独裁権をふるった。

 西太后は、光緒帝が親政すると(1887)離宮の頤和園に退いたが、依然として政治に干渉し、実権を握り続けた。これに反発する光緒帝が康有為らを起用して戊戌の変法を行うと保守派と結んでこれを弾圧した。

 1898年9月、西太后は光緒帝を幽閉し、変法派を逮捕・処刑した。康有為や梁啓超は日本に亡命したが、譚嗣同は処刑された。新政はわずか3ヶ月で終わった(百日維新)。この出来事を戊戌の政変(1898.9)という。光緒帝は以後紫禁城内に幽閉され、1908年11月に急死し、その翌日に西太后が亡くなった。

 戊戌の政変後、西太后は三度摂政となり、保守・排外派が政治を動かすようになった。

 その頃、中国では民衆による排外運動が激化していた。
 1860年の北京条約でキリスト教の布教が認められ、内地への伝道が開始されると、各地で仇教運動と呼ばれるキリスト教排斥運動が起こった。まず地方の役人や郷紳が教会を敵視し、彼らの指導する軍隊や民衆による教会の襲撃や宣教師の殺害・信者への迫害事件が各地で起こった。仇教運動は外国の中国侵略に対する抵抗運動であったので排外運動と結びついた。

 山東におけるドイツ人宣教師殺害事件(1897)を口実にドイツが山東半島に進出すると、義和団を中心とする排外運動が起こった。

 義和団は義和拳という武術を修練した排外的な宗教結社で白蓮教の一派ともいわれる。彼らの間では義和拳を修練すれば不死身の身体となり、さらに練術すれば天を飛翔する魔力を得ることが出来ると信じられていた。

 義和団は、1897年以降、華北一帯の災害のために窮乏した農民・流民・下層労働者が加わって急速に勢力を拡大し、山東半島へのドイツの進出とキリスト教会に対する反感から武装蜂起した。

 義和団は、1899年末には山東省から河北省に入り、「扶清滅洋」(清を扶(たす)けて、西洋を討ち滅ぼそうの意味)をスローガンに掲げ、各地の教会を襲撃し、宣教師やキリスト教徒を殺害し、鉄道や電線を破壊し、1900年6月には20万人の勢力となって北京に入り、日本およびドイツ人の外交官を殺害した。

 6月21日、清朝の保守・排外派は義和団を利用して外国人を一掃しようとして列強に宣戦を布告した。清軍による北京の外国公使館に対して攻撃が始まり、また華北一帯にわたって教会・外国人に対する大規模な攻撃・殺戮が始まった。

 列強はこれを機に在留外国人の保護を名目に8カ国(日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア)が共同出兵にふみきった。

 当時、イギリスは南ア戦争、アメリカはフィリピンのアギナルド軍と戦争中で兵力に余裕がなかったので、地理的に近い日本(最大の約1万2000人)と極東進出をねらうロシア(約6000人)を主力とする8カ国連合軍が組織され(1900.7)、天津を占領し、8月には北京に入城し、公使館区域に籠城していた外国人を救出した。

 連合軍の北京入城の翌日、西太后は光緒帝を伴って北京を脱出して西安に逃れ、李鴻章を直隷総督に復帰させて講和の交渉にあたらせた。

 なおこの時、北京・天津などでは連合軍によって前代未聞の掠奪・暴行が行われ、多くの貴重な文化財が海外に持ち去られたが、こうした中での日本軍の勇敢さと規律の正しさは列強を驚かせた。

 1901年9月、敗れた清は11カ国(出兵した8カ国とベルギー・オランダ・スペイン)との間で北京議定書(辛丑(しんちゅう)和約)を結んだ。

 清は責任者の処罰・賠償金4億5000万両の39カ年賦払い・日本とドイツへの謝罪使の派遣・外国軍隊の北京駐屯・北京周辺地域の防備の撤廃・排外団体への加入や運動の厳禁・武器弾薬及び製造材料の輸入の2年間禁止などを認めたので、中国に対する外国の干渉はさらに強まり、中国の半植民地化が決定的となった。




目次へ戻る
次へ