3 アジア諸国の変革と民族運動

1 中国利権の争奪

 「眠れる獅子」と呼ばれていた清朝が日清戦争(1894〜95)に敗北し、その弱体が暴露されると列強は争って中国へ進出し、利権の獲得に乗りだした。

 それまでヨーロッパ列強は中国を商品市場・原料供給地として見てきたが、以後は資本の投下先として注目し、鉄道敷設権や鉱山採掘権などの利権獲得に狂奔するとともに自国の勢力範囲の拡張に乗りだした。

 日本が下関条約で遼東半島を獲得すると、条約調印から6日後に、ロシアはフランス・ドイツをさそい、三国が共同で日本に対して遼東半島を清国に返還するように勧告した(三国干渉、1895.4)。日本はやむなくこれを受け入れ、11月に遼東半島を清に返還し、その代償として3000万両を受け取った。

 そしてすでにシベリア鉄道の建設を進め、極東への進出を強めていたロシアは三国干渉の代償として、1896年に清から東清鉄道の敷設権を獲得した。

 東清鉄道は、満州里と綏芬河(すいふんが)間の幹線とハルビンから大連に至る支線からなるが、ロシアは1896年に幹線の敷設権を獲得し、支線については1898年に敷設権を獲得した。ロシアは東清鉄道の敷設権を獲得することによって、チタからウラジヴォストークを最短距離で結ぶことが可能になり、1905年までに東清鉄道を結ぶシベリア鉄道が完成した(北方領内線の完成は1916年)。

 中国分割の野心を持つドイツは、2人のドイツ人宣教師が殺害された事件を口実に艦隊を派遣して膠州湾を占領した(1897.11)。そして翌1898年3月に膠州湾を租借し(期限は99カ年)、青島(チンタオ)市を建設し、東洋艦隊の根拠地とした。

 租借とは、他国の領土の一部を条約によって国が借りることであるが、租借期間中の租借地における行政・立法・司法権は租借国がもつので、事実上領土割譲の性格を持つことになる。

 ドイツが膠州湾を租借すると、ロシアは遼東半島南部(旅順・大連)を租借し(期限は25カ年)、旅順に要塞と軍港を、大連には商港を建設した(1898.3)。

 イギリスは、ロシアの旅順・大連租借に対抗して、清の北洋艦隊の根拠地であった山東半島北岸の威海衛を租借して東洋艦隊の基地とし(期限は25カ年)、また九龍半島(九龍半島と付属の33島を含み、新界といった)を租借した(期限は99カ年、1898.6)。

 フランスも、翌1899年に広州湾を租借した(期限は99カ年)。

 列強は租借地を軍事基地とし、そこから内地に通じる鉄道の敷設権や鉱山採掘権をも併せて獲得した。そして自国の権益地帯の独占をはかるために、特定の地域を他国に割譲しないことを清朝に約束させる不割譲条約を結び、その地域を自国の勢力範囲と定めた。

 ロシアは中国東北地方を、ドイツは山東省を勢力範囲とし、イギリスは長江流域と広東省東部を、そしてフランスは広東省西部と広西省・雲南省・海南島を勢力範囲とした。また日本は台湾対岸の福建省を勢力範囲と定めたので、中国は事実上列強によって分割されたにひとしい状態となった。

 米西戦争(1898)でフィリピン・グァム島を獲得して中国市場への関心を強めたアメリカが中国へ進出をはかろうとした頃にはすでに列強による中国の分割が完了していた。

 そのため出遅れたアメリカは、1899年に国務長官ジョン=ヘイの名で門戸開放宣言(ジョン=ヘイの三原則、Open Door Doctrine)を行い、1899年には門戸開放・機会均等を、1900年には領土保全を提唱した。

 アメリカの意図は中国分割への割り込みにあり、中国全域に対する自由な経済進出を対中国政策の原則にすることを列強に認めさせることにあった。各国とも原則的にはこれに同意したので中国分割は一時的に弱まった。




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