4 最近の世界

2 最近のアジア=アフリカ諸国(その3)

 中国では、1993年11月に開かれた中国共産党第14期中央委員会第3回総会で「社会主義市場経済に関する決定」が採択され、社会主義計画経済から社会主義市場経済に改めて国有企業・金融など各分野で大胆な改革を行うことが決定された。

 同月(1993.11)、訪米した江沢民はクリントン大統領と天安門事件(1989.6)後初の米中首脳会談を行い、関係改善で合意した。そして翌1994年5月にはクリントン米大統領は最恵国待遇問題を人権問題と切り離すことを決定し、期限切れとなる中国に対する最恵国待遇を更新した。

 台湾では、1988年1月に蒋経国総統(1906〜1988、任1976〜88、蒋介石の長男)が死去し、副総統で台湾本省人の李登輝(1923〜、任1988〜2000)が総統(最高首脳)に就任した。李登輝は、1995年6月に現職の台湾最高指導者としては初めて非公式にアメリカを訪問した。しかし、中国はこれに強く反発して中台関係の緊張が高まり、中国は7月以降台湾北方海域で軍事演習を行って台湾に圧力をかけた。

 1996年3月に行われた台湾総統の初の直接選挙を前に、中国は台湾の独立に向けた動きを牽制するために台湾近海の海域にミサイルを発射し、軍事大演習を行った。この中国の動きを警戒したアメリカは空母部隊を派遣し、台湾海峡での緊張が高まった。なお台湾総統選挙では李登輝が圧勝した。

 1997年2月19日、中国の改革開放を推進してきた最高実力者のケ小平が死去した。

 同年7月1日、1842年以来イギリスの植民地としてイギリスに統治されてきた香港が中国に返還され、香港は特別行政区として一国二制度の下で新しいスタートを切った。

 同年9月、中国共産党第15回全国代表大会が開催され、江沢民総書記はケ小平が推進してきた改革開放路線の継続・社会主義市場経済の推進・国有企業改革(国有企業の株式会社化)と金融改革の実施などの方針を明らかにし、江沢民・朱鎔基(1928 〜、首相・任1998〜)の指導体制が確立された。

 江沢民は、同年10月にアメリカを訪問し、クリントン大統領と首脳会談を行い、人権問題では食い違いを残したが、「建設的戦略的パートナーシップ」を目ざすことを確認した。そして翌1998年6月には、クリントン大統領が天安門事件後アメリカの大統領としては初めて中国を訪問し、米中関係を強化していくことで合意した。

 さらに江沢民は、1998年11月には国家元首として初めて日本を公式に訪問した。江沢民は歴史問題には強い態度で臨み、小渕首相は戦争責任について反省とおわびを表明した。

 1999年7月、台湾の李登輝総統が外国の報道機関とのインタビューで「中国と台湾の関係は国家と国家の関係であり、少なくとも特殊な国と国の関係である」と述べた。中国はこの発言に反発・厳しく非難し、台湾海峡で戦時動員演習を実施し、中台関係は再び緊迫した。なお、李登輝は、2000年3月の総統選挙で、国民党公認の連戦候補が野党の民主進歩党の陳水扁(1951〜、任2000〜)に敗れた責任を取り、国民党の党主席を辞任した。

 1999年10月1日、中華人民共和国は建国50周年記念式典を挙行し、天安門広場で15年ぶりの軍事パレードを実施した。

 同年12月、ポルトガルが442年にわたって統治してきたマカオが中国に返還され、アジアにおける西欧諸国の植民地は消滅した。

 2001年11月、WTO閣僚会議において中国のWTO加盟が承認され、翌12月に加盟が発効した。中国は1986年にWTOの前身であるガットに加盟を申請して以来、15年かかってWTOへの加盟を果たし、第143番目の加盟国となった。これによって人口13億人の巨大市場が自由貿易体制に加わることとなり、中国は一層の市場開放に踏み出し、世界経済の中で「世界の工場」として大きな役割を果たすこととなった。また台湾も、中国に1日遅れてWTO加盟が承認され、独立関税地域として2002年1月に正式加盟した。

 2001年には、歴史教科書問題・李登輝の訪日(病気治療のため倉敷を訪れる)・小泉首相の靖国神社参拝等をめぐり、中国は日本の対応を厳しく批判して日中関係がぎくしゃくしたが、同年10月の小泉首相の訪中などを通して日中関係は徐々に改善へ向かった。

 2002年11月に開かれた中国共産党第16回全国代表大会では、新指導部の選出や党規約の改正等が行われ、引退した江沢民に替わって胡錦涛(1942〜、任2002〜)が党総書記に選出された。また党規約修正案が採択され、新たに江沢民の「三つの代表」(中国共産党は、中国の先進的な社会生産力の発展の要求、中国の先進的文化の前進の方向、中国の最も広範な人民の根本的利益を代表すべきとする思想)が盛り込まれ、また私営企業主等の共産党入党を正式に容認することとなった。

 なお、2002年は日中国交正常化30周年の年にあたり、それを記念する行事や交流活動が展開された。

 韓国では、1993年2月に金泳三(1927〜、任1993〜98)が大統領に就任し、32年ぶりの本格的文民政権が正式に発足した。

 1993年11月、細川首相が韓国を訪問し、植民地支配を謝罪するとともに、新しい未来に向けて日韓関係を構築することで一致した。翌1994年3月、金泳三は国賓として来日し、日韓両国が過去よりも未来に目を向ける必要性を訴え、両国の協力関係の重要性を強調した。

 1994年7月、北朝鮮の金日成国家主席が死去した。

 同年10月に核問題に関する米朝「枠組み合意」が調印されると、金泳三は11月には核問題により凍結されていた北朝鮮に対する経済協力を2年ぶりに部分的開放を決定し、翌1995年には南北対話再開を提案し、北朝鮮に対して和解と協力を呼びかけた。

 1995年11月、韓国を訪問した江沢民は金泳三と首脳会談を行い、両首脳は日本の歴史認識発言を厳しく批判した。同月、金泳三は軍政権下で起きた光州事件(1980)関係者(全斗煥元大統領や盧泰愚前大統領も含まれる)の処罰に関する特別法を制定するよう指示した。

 全斗煥元大統領(1995.12逮捕)と盧泰愚前大統領(1995.11逮捕)は、1995年12月に光州事件に関与したとして内乱罪などで起訴され、1996年8月にソウル地裁は全斗煥元大統領に死刑、盧泰愚前大統領には懲役22年6ヵ月(求刑は無期懲役)の判決を下した。12月のソウル高裁は全斗煥に無期懲役、盧泰愚に懲役17年の減刑判決を出した。そして翌1997年4月の韓国大法院(最高裁)で全斗煥の無期懲役、盧泰愚の懲役17年の刑が確定したが、同年12月に全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領は特赦となった。

 1996年4月には北朝鮮の武装兵士が非武装地帯に侵入する事件が起こり、さらに9月には北朝鮮の潜水艦が韓国東沿岸に侵入して座礁する事件が起こったため、韓国側は北鮮に対する食糧支援などを当分中止する方針を表明した。

 韓国経済は1994〜95年の円高によって貿易収支・経常収支が悪化し、1996年には貿易収支・経常収支が大幅に悪化していた。1997年11月にアジア通貨・金融危機の影響もあってウォンが暴落し、韓国政府は金融危機を回避するためにIMF(国際通貨基金)に緊急支援を要請した。以後韓国は金融引き締めなどによって企業の倒産・リストラによる失業者の増大など、いわゆるIMF不況に陥った。

 こうした状況の中で 1997年12月に行われた大統領選挙では、野党・国民会議の金大中候補が4度目の挑戦で、旧与党系のハンナラ党(1997年11月に新韓国党と民主党が合同して結成した、ハンナラは一つの国の意味)の李会昌候補に小差で勝利して当選し、韓国史上初の与野党の政権交代を実現した。

 1998年2月に金大中(キムデジュン、1925〜、任1998〜2003)は大統領に就任し、金融危機の克服のために国民に忍耐と協力を訴えるとともに、北朝鮮に対しては南北対話の再開に向けて、包容政策いわゆる太陽政策を推進することを表明した。

 金大中は、1998年10月に韓国大統領・国賓として初めて来日し、小渕首相と首脳会談を行った。両首脳は「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」と題した日韓共同宣言に署名し、小渕首相は韓国国民に対して過去の植民地支配への「反省」と「おわび」を表明し、金大統領はこれを評価するとともに「過去の不幸な歴史を乗り越えて未来志向的な関係を発展させる」ために両国の努力が必要であることを強調した。そして日韓共同宣言に沿って、韓国政府は同月、映画・ビデオ・音楽・出版部門での日本大衆文化を段階的に開放することを公式に発表した。

 1998年11月には、鄭周永(韓国最大の財閥・現代グループ名誉会長)の訪朝(1998.10)で合意した金剛山観光が始まった。

 この間、韓国は財務改革・経営の合理化などによってIMF不況の克服に努め、金大中は1999年11月に通貨危機を完全に克服したと宣言した。

 2000年6月、ついに南北首脳会談が実現した。金大中が平壌を訪れて金正日総書記と会談し、南北共同宣言に署名した。

 南北首脳会談の実現を契機として南北間の対話と交流が大きく進展し、2000年8月には南北の離散家族が平壌とソウルで再会した。しかし、南北関係は2001年9月以後一時停滞し、金正日の訪韓もまだ実現していない。

 金大中は太陽政策によって南北朝鮮の和解に貢献した功績によって2000年10月にノーベル平和賞を受賞した。

 2001年には歴史教科書問題や小泉総理の靖国神社参拝問題などで日韓関係が悪化したが、2002年6月のサッカー・ワールドカップ日韓共催や日韓国民交流年で両国間の交流が盛んとなり、日韓関係は好転した。

 2002年12月に行われた韓国大統領選挙は、北朝鮮の核兵器開発問題など北朝鮮情勢が緊迫する中で、太陽政策の継続・見直しを最大の争点として行われて大接戦となったが、与党・新千年民主党(民主党)の盧武鉉(ノムヒョン、1946〜)候補が、野党ハンナラ党の李会昌(イフェチャン)候補を破って当選を決めた。

 太陽政策の継承を訴えた戦後生まれの盧武鉉大統領(就任は2003年2月)の新政権が北朝鮮政策をどう進めるか、また対米関係をどのように調整していくかが注目されている。

 朝鮮民主主義人民共和国では、1997年10月に金正日(キムジョンイル、1942〜)が朝鮮労働党総書記に就任し、1998年9月には国防委員会委員長に再任された。

 1998年8月末、北朝鮮がミサイル「テポドン」を発射し、その一部が日本列島を超えて三陸沖の太平洋上に着弾するという出来事が起こった。日本政府は北朝鮮のミサイル発射に抗議するとともに、国交正常化交渉の再開凍結と食糧などの人道支援・KEDO(朝鮮半島エネルギー機構)による軽水炉原発の供給事業への協力の見合わせなどの制裁措置を決定した。

 さらに、1999年3月には日本海で不審船追跡事件が起こったが、同年12月には村山元首相を団長とする超党派の議員団が北朝鮮を訪問し、国交正常化交渉の早期再開や人道問題解決の重要性で合意した。そして同月、国交正常化交渉再開に向けての日朝予備会談・赤十字会談が開催された。

 2000年6月、ついに南北首脳会談が実現した。太陽政策を打ち出した金大中大統領が北朝鮮を訪問して金正日総書記と会談し、南北共同宣言に署名した。

 2001年12月に奄美大島近海で発見された不審船を海上保安庁の巡視船が追跡し、銃弾戦の中で不審船は東シナ海で沈没するという出来事が起きた。

 2002年9月、小泉首相が日本の首相としては初めて訪朝し、金正日と日朝首脳会談を行い、日朝平壌宣言に署名した。これによって10月末から日朝国交正常化交渉が再開されることとなった。

 しかし、10月16日に北朝鮮が高度濃縮ウラン施設の建設などの核兵器開発を進めていることを認めたことが明らかになり、10月末に約2年ぶりに再開された日朝国交正常化交渉では、拉致事件と北朝鮮の核開発問題の解決を最優先課題とする日本側に対して北朝鮮側が反論し、交渉は難航して再開のめどが立っていない。

 日本では、1990年代に海部内閣(1988.8〜91.11)・宮澤内閣(1991.11〜93.8)・細川内閣(1993.8〜94.4)・羽田内閣(1994.4〜94.6)・村山内閣(1994.6〜96.1)・橋本内閣(1996.1〜98.7)・小渕内閣(1998.7〜2000.4)・森内閣(2000.4〜2001.4)と8つの内閣が交替し、21世紀に入って小泉内閣(2001.4〜)が成立した。

 1991年1月に湾岸戦争が起こると、日本は多国籍軍に130億ドルの戦費支援を行うとともに、4月には海上自衛隊掃海艇をペルシア湾に派遣した。

 1992年6月には、PKO(国連平和維持活動)に自衛隊が参加できることを定めたPKO協力法が成立し、同年10月にはカンボジア平和維持活動に文民警察と自衛隊が参加し、翌1993年5月にもモザンビークへPKOを派遣した。

 1993年8月、日本新党の細川党首を首班とする社会党・新生党・公明党・日本新党・民社党・新党さきがけ・社民連の連立内閣が成立し、38年年間続いた自民党の単独政権が崩れ、55年体制(1955年以来続いた自民党と社会党の2党を中心とする政治体制)が崩壊した。そして1994年6月には社会党(現社民党)の村山党首を首班とする社会党・自民党・新党さきがけの連立内閣が成立した。

 1995年1月17日に阪神大震災が起こり、6000人以上の死者が出る大惨事となった。そして同年3月には地下鉄サリン事件が起こった。

 日本経済は、1980年代の後半から株式や土地が異常に高騰するバブル経済による長期の好景気が続いたが、1990年にはバブル経済が崩壊して1992年から景気後退期に入り、以後長期にわたる不況・デフレが続いている。

 バブル経済の崩壊によって巨額の不良債権が発生し、1996年6月の住宅専門会社処理法に始まり、歴代の内閣は不良債権の処理に追われている。また1996年からの金融システムの改革によって銀行や証券会社の経営破綻が続いた。

 1996年10月に行われた総選挙は初の小選挙区比例代表並立制で行われた。1998年7月の参議院選挙では自民党が惨敗し、橋本首相はその責任を取って退陣し、同月小渕内閣が成立した。

 1998年10月、金大中大統領が来日し、小渕首相と会談し、「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」と題した共同宣言に署名した。同年11月にロシアを訪問した小渕首相は、2000年までに平和条約を締結することを確認したモスクワ宣言に署名した。しかし、ロシアとの平和条約は20世紀中には結ばれず、北方4島の領土問題も21世紀に持ち越された。 

 2000年4月2日に小渕首相が緊急入院し(5月に死去)、4月5日には森内閣が成立した。しかし、森内閣は国民の期待する不況克服や変化に対応できず、2001年4月に行われた自民党総裁選では、構造改革を掲げて都道府県ごとの予備選で圧勝した小泉純一郎が、本選挙でも過半数を獲得して総裁に選出され、小泉内閣が成立した。

 小泉内閣はブッシュ政権と緊密な関係を維持し、2001年9月の同時多発テロ以後はアメリカのテロとの闘いを支持し、同年10月に始まったアフガニスタン攻撃にはアメリカ軍の後方支援・情報収集のために自衛艦をインド洋に派遣するなどの対応策を発表した。

 2002年9月、小泉首相は日本の首相としては初めて訪朝し、金正日と日朝首脳会談を行い、日朝平壌宣言に署名した。これによって10月末から日朝国交正常化交渉が再開されることとなったが、10月には北朝鮮が核兵器開発を進めていることを認めたことが明らかになり、10月末に再開された日朝国交正常化交渉は拉致事件と北朝鮮の核開発問題で難航し、再開のめどが立っていない。

 この間、日本経済は長期にわたる不況・デフレから抜け出せず、国民は小泉内閣の構造改革に期待したが、財政改革・不良債権の処理などの課題は依然として解決されていない。

 なお、2002年は日中国交正常化30周年の年にあたり、また史上初の日韓共催となったサッカー・ワールドカップに合わせて日韓国民交流年でもあり、それを記念する行事や交流が盛んに行われた。ワールドカップでは韓国はアジア最高のベスト4・日本も初の16強と健闘した。

 2002年10月には小柴昌俊氏がノーベル物理学賞を、田中耕一氏が化学賞を受賞して日本初のダブル受賞となり、日本のノーベル賞受賞者は12人となった。

 21世紀の日本の将来が明るいものであることを祈っている昨今である。




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